妖精がいる世界 4.仮面の下






 夜空に舞う白銀の妖精。
 巨大な月の後光を受けたシルエットは、可憐な少女の姿をかたどっていた。
 風にそよぐ長い銀髪と、スラリとした手足。
 薄紫色の蝶を模した仮面で素顔を隠しているが、怜悧な眼差しと上品な口元は、麗しい美少女であることを想像させる。
 身を包む衣装は誇り高き少女騎士を思わせ、胸には大きなリボン。 可愛らしいバックルと、高貴なグローブとブーツを履いている。
 そして、右の手には装飾美しいレイピアを携えていた。
 短く翻るスカートから伸びる太腿は、月光に照らされることで艶やかな光を跳ね返し、やがてゆっくりと、屋根の上から飛び降りた。

「怪傑・シルバープリンセス。 今宵もうら若き少年少女を助けるため、個人的に参上」

 音もなく降り立ったところは、今しがた人身売買が行われていたステージの真上。 自警団の男、富豪、奴隷、商人、様々な視線が一斉に予定外の出演者に向けられていた。

「現れたなシルバープリンセス、今日こそはその首貰い受ける」

 定番化されたセリフ。 小太りの商人が青筋を立てて憤懣すると、それを見て怪傑は微笑み、ふぅっとこめかみに指を置いた。

「相も変わらずワンパターンなやつらだな、いいよ、まとめて相手してあげる。 ・・・・・・ かかってこい」

 怪傑は軽やかなステップを踏む。 一斉に飛びかかる男たちの剣や斧をひらりとかわし、一人ずつその意識を刈り取っていく。
 怪傑が扱うレイピアは、そもそも刃がないので殺生能力はないが、二、三日動けなくするだけの力はあった。

「お、おのれ〜、そんなふざけた玩具なんぞ使って・・・・・・ 余裕のつもりか?」

「蝶は誰も傷つけない。 風に乗り、美しき花から花へと渡るだけ」

「いちいち背中がかゆくなるようなセリフをいいやがって、この!」

「アハハハハ、後ろから奇襲するのに声をかけるお馬鹿さんがいるみたいだね!」

 笑顔を振りまき、スカートとマントを同時になびかせる。 優雅かつ華麗にバク転宙返りを決めると、屈強な男たちはバッタバッタと倒れていく。
 宣言通り。 誰の命も奪わずに怪傑は、悠然と奴隷の少年少女たちを解放していった。

「ケガはない?」

「は、はい」

「うふっ、もう大丈夫だよ」

「ありがとうございます」

 仮面の下から覗く美しき瞳に、心を奪われる少年少女たちは少なくない。
 奴隷商人たちも周りの取り巻きたちも、自慢の用心棒たちがあっけなく倒されたことを目の当たりにして言葉が出ない。 それに自ら怪傑に立ち向かう勇気も甲斐性もないので、歯痒そうにその救出劇を見届けるしかなかった。

「はてさて、みんな無駄な筋肉ばかりつけて、肝心の頭の方に栄養がいってないんじゃないかな。 さっ、他にご用がないのなら、そろそろカーテンコールといこうか」

 自分に注意を惹きつけておき、その間にすべての奴隷たちを逃がしてしまう華麗な蝶。
 フィナーレに、ひらりと手を振って逃げようとしたところ、

「―― うわ!? な、な、な、なんだこれ!?」

 怪傑の姿が消える。 ジタバタと蠢くシルエットだけがそこに残った。

「頭に栄養が足りてないっていうのには同感します。 だって、蝶を捕まえたいのなら、剣よりもまず網が必要ですよね・・・・・・ 今よ、チトセ!」

「おう、神妙にしやがれ」

「・・・・・・ なるほど、仕事ができる人だね。 お嬢さんたちは、いいコンビだ」

 満を持して舞台に上がってくる黒い髪のメグル。
 舞台裏から捕獲網を投じたチトセは、そのまま怪傑を抑え込みに入った。
 すると鎮まっていた場内は別の盛り上がりを見せ、倒れていた男たちも起き上がり、雄々しい声を上げながら飛び込んでいく。一人、また一人と、多すぎる。まるでパンケーキのように積み重なる人間の、男たちのヤマができあがった。

「あー、あー、あー、チトセ・・・・・・ ご愁傷様」

 一番先に飛び込んだはずの相棒が、「ふんぎゃあ」という声を、最後に姿を消した。
 やはり、他のものは脳が足りないのだと、メグルは頭を抱える。

「ハッハッハッハ! そんなところでなにをやっているんだい、お前たち!」

「え?」

 声を聞いてメグルが振り返る。 そこには網の中で潰れているはずの怪傑が、ピンピンした姿で窓辺にたち、夜空に向かって飛び立とうとしているところだった。

「あらまあ、いつの間に・・・・・・」

 おっとりと首をかしげるメグルは、瞳をぱちくり、不思議そうに見つめていた。

「今日はいつもよりちょっと刺激的な夜で楽しかったよ。 それじゃあ、皆々様、ごきげんよう」

 怪傑は、優雅な笑みを観客に残して、夜の闇の中に消える。
 何人かの男たちがその後を追ったが、蝶がつかまることはないだろう。

「んー、怪傑・シルバープリンセスかぁ・・・・・・」

 唇に人差し指を当てながら、メグルは一人静かに考え込む。 知識と事実と計画を擦り合わせて、不敵に微笑んだ。

「キザっぽい話し方だけど、ネーミングセンスは、わりと普通なのよねぇ」

 メグルが空を見上げると、分厚い雲の切れ目から巨大な満月が見える。
 夜の蝶を捕えるためには、もっと巨大なアミが必要だった。





 花の都シェフィールドには二つの顔がある。
 街中に咲き誇る美しい花とともに、華やかさで飾られた新市街。 その裏には、貧困に苦しむ人々が暮らす旧市街が存在する。 辛い汚れ仕事のわずかな稼ぎだけで生きていくしかない彼らは、服や見てくれがみすぼらしく、そのせいで表側の人々から常に蔑まれていた。
 シルバープリンセスこと―― マフユは、旧市街にある小さな聖堂で働く一人の敬虔な聖職者であり、まだ少年から青年へとなろうとする年齢だった。
 そして今の彼の最も重要な仕事というのは、自分より幼い子供だたちの教師となって、勉学を教える事だった。 彼はその意味を十分に理解し、そして誇りを持って臨んでいるのだが・・・・・・

「―― ゆえに、ですね。この答えはこういうことでぇ、え〜っと」

 小気味よく黒板にチョークを走らせる彼だったが、直後に最前列にいた女の子に服をひっぱられる。

「マフユせんせいぃ? その答え、間違っているよ」

「え、そ、そんなはずは・・・・・・ あぁ! 数字を一個かきまちがている、ご、ごめん、今のなし」

「ていうかさ、その問題、先週も同じところをやったよ。 ねえ、みんな?」

「うん」

「ええっ! ほ、ほんとぉ? とほほほ・・・・・・ また失敗しちゃったよ」

 素っ頓狂な声を出して驚いたマフユに年上としての尊厳はなく、教室は常に和気藹々とした空気に包まれていた。

「あはははははははっ。もう、しっかりぃ、マフユせんせぇ〜」

「は、はい・・・・・・」

 夜の間は性別を偽り、可憐な蝶の姿に化けるマフユ。
 しかし、昼間はうってかわって“ぬけさく”である。
 今日もまた生徒に三回以上黒板の書き間違いを指摘され、赤ん坊の作り方を聞かれると顔を真っ赤にさせてあたふたとし、なにもないところで素っ転ぶことなど日常茶飯事。
 顔立ちは整っているものの、分厚い眼鏡と長い前髪。 表情も頼りなく、なおかつ身長も大人とは思えぬほど小柄であるため、活発な生徒たちからはよくからかわれていた。

(うううっ、どうしていつもこうなんだろ? もっともっと、神父様のようにしっかりとした人間になりたいのに――)

「せんせい、危ない」

 授業後、ぼんやりと聖堂の庭を歩いていたマフユに、子供たちが思い切り打ったボールが近づく。しかし小高い鼻梁に衝突しようとしたそのとき、彼は一瞬身を引きそれをかわし、まるで何事もなかったかのように歩きだした。
 ぽかんとその一部始終を見ていた子供たちは、偶然だの奇跡だの騒いでいたが、マフユの並外れた運動神経を信じる者は、ただ一人もいなかった。



(主よ、我が身心を清めたまえ・・・・・・命の尊さを忘れ、己が欲望に生きるものたちを罰する力を、我に与えたまえ・・・・・・)

 殉教者であるマフユは、毎日かかさず行っていることがある。
 それはステンドグラスに夕暮れの光が差し込む頃、礼拝場の正面に跪いて、目の前の女神像に向かって祈りをささげることだった。
 一人でも多くの子供たちが明るく希望をもった人生を送れるように。
 家族のため、誰かのため、もちろん自分の幸せのため、勤勉に働くことができるように。
 皆が先祖の魂に感謝し、健やかな眠りにつくことができるように。
 そして奴隷という忌まわしき存在がこの世からなくなることを、心の底から願い続けていた。

(いったい、いつまであんなことを続ければいいのだろう? どれだけわたしがシルバープリンセスとして活動しても、奴隷の数は減らず、今日もどこかで若い少年少女たちが・・・・・・)

 マフユは悲しげに眉を寄せる。 そこには怒りも憎しみもなく、ただ同じ人間という種族でありながら、互いを差別しあう哀しい性を憂いていた。

(・・・・・・ 。 だめだ。 僕たるわたしが弱気になってはいけない。 きっとこれは我が主が与えた試練・・・・・・ 乗り越えなければいけない試練・・・・・・ そうですよね?)

 自分に言い聞かせるようにして立ち上がるマフユは、眼鏡の奥で深い使命感に燃えていた。
 今はまだ少し大きすぎる信徒服をもたつかせて、ゆっくり振りかえす。 また転びそうになりながらも礼拝堂を後にしようとしたそのとき、一人の黒髪少女に彼は出会う。
 ―― どこか、見覚えのある、顔だった。

「あの・・・・・・」

「はい、なんでっちょ?」

「ちょ?」

「・・・・・・ なんでしょうか?」

 マフユが一言目から噛んでしまって、聖職者としての威厳も緊張感もなくし、黒髪の少女はのほほんとした顔でこちらを見た。

(この子、確か昨日の夜の子だよね? ・・・・・・ 奴らの仲間? なんでこんなところに?)

 観光でこの旧市街を訪れるものはいない。
 怪訝な心を持つマフユではあったが、神の家たる礼拝堂で手荒なことはできなかった。

「きみは・・・・・・ いえ、あなたは、ここの方ですか? 少し、お話を聞かせていただきたいんですが?」

「は、はぁ・・・・・・ 構いませんが、神父様は今国を離れていますし、懺悔や祝福のお話でしたら、代わりに私が伺いますよ?」

「うふふ。 そういうお話ではなくですね。 こちらを見ていただきたいんですけど」

 黒髪の少女は艶めかしく目を細め、胸の谷間から四つ折りの紙を取り出す。
 自信に満ちあふれた少女の誘惑に、マフユは顔を赤らめることなく、紙の中身を覗き込み、顔をしかめた。

「なにこれ?」

「怪傑・シルバープリンセスです。 ご存知ないですか?」

「・・・・・・ 名前は知っているけど、でもなんでこんな筋骨隆々なの? しかも口から火を噴いているじゃないですか」

「伝え聞いた話を纏めたらこのようになったんです」

「・・・・・・」

 マフユは、それが自分のもう一つの素顔だと思うと、少なからずショックを受けていた。

(うぅぅ、う、美しくない・・・・・・)

 厚底メガネの奥で眉根を細やかに蠢かすマフユではあったが、それを奴隷商人の仲間である黒髪少女に知られてはいけない。

「どうか、しましたか?」

「いいえ、なんでもありません。 それで、お話とこの怪獣・・・・・・ ゲフンゲフン、この絵の子といったいどんな関係が?」

 マフユがにこやかに問いかけると、黒髪の少女もまたにこやかに答えを返す。 二人の身長はほぼ同じで、ハイヒールを履いている分、彼女の方が少し高く見えた。

「さっきも言いましたが、怪傑・シルバープリンセスって、あなたはご存知ですか?」

「この街でその名を知らない人はモグリか引きこもりのどっちかですよ」

 マフユはゆるりと口端を釣り上げた。

「悪徳商人からお金を巻き上げたり、奴隷商人から奴隷を解放したり、犯罪者とはいえ、ちょっと憧れてもいるんですよ」

「聖職者が犯罪者に憧れですか・・・・・・? まあ、いいです。 でも、それなら話は早いですね。 わたし“たち”は、今その足取りを追っています」

「わたし“たち”?」

「うちの相棒は、今、あっちで」

 ふとマフユは視線を移動させると、そこには子供と戯れる全身包帯人間の姿があった――

「きゃはははははは、うはははぁーい」

「ふがー、ふがーっ、、ふがーっ」

「・・・・・・ なにあれ?」

 包帯人間を見て、馬鹿みたいだとマフユは呆れていた。

「不幸な事故でした。 でもあれも、シルバープリンスを捕まえるための仕方のない犠牲なんです」

 よよよと、黒髪少女は空の涙をぬぐう。

「よくわかりませんけど、タフな人なんですね。 あまり張り切りすぎないよう、彼女にお伝えください」

「はぁい」

 包帯女の存在をマフユは非常に気にしたが、今はそれを忘れ、先ほどからこちらの一挙種一挙同に注目する黒髪の少女を警戒した。

「で、結局あなたたちはなんなんですか? 商人たちに雇われた探偵か、自警団の人なんですか?」

「ふふふっ。 まあ、違いますけど。 似たようなものですよ」

「・・・・・・ そういうことでしたら、もうしわけにゃ―― ないですが、ご期待にはそえられそうにありません」

「どうしてそんなこと言うのですか?」

「ここは、子供たちに夢と希望を与えるための場所です。 犯罪者のことなんて、いくら探っても何もできませんよ。諦めてお帰りください」

 だが、黒髪の少女は引きさがらない。

「興味深いですね。 他のところもそう、旧市街の人たちはみんな同じことを言います。 まるで示し合わせているみたいに。 知りません、何も出てきません、お帰りくださいって」

「当たり前ですよ。 貴方みたいな人は、これまでも何人もいましたから、自然と答えがシンプルになってきただけです」

「そうでしょうか? ひょっとしてみんなでプリンセスをかくまっていたりしていませんか?」

 黒髪の少女はとても上品な話し方をするが、黒目がちの瞳の奥に見えるのは、これまで退治してきた悪人たちと同じ冷たさを感じる。 マフユはより警戒心を強くして、なおかつ神の教えを説くように話した。
 いざとなれば雷のような瞬発力で、逃げることも、彼女の気を失わせることぐらいわけなかった。

「めんどうな―― じゃなくて、疑り深い人ですね。 もっと人を信じましょう、信じる事で人は俗物から解放され、あなたも真実の愛を知ることになるでしょう」

「神父様みたいな台詞ですね。 それって自分で考えるんですか?」

「興味があるのならあと17パターンくらいありますけど、全部お聞きになりますか?」

「いえいえ、それは結構。 ふふふっ、むかしからお爺ちゃんお婆ちゃんの説教を聞くのは苦手手で、眠くならないうちに退散します」

 黒髪の少女はおどけた口調で煙にまき、それからしゃらりと髪をかきあげた。 表情をやわらかく崩し、そのままマフユに背を向けた。
 これ以上話をしても時間の無駄だと考えたのだろう。
 それで安心したマフユは、彼女と、その仲間が聖堂から立ち去っていく姿を最後まで、見送っていた。





「チトセ、要チェックだね、さっきのひと」

 黒髪の少女―― メグルは確信を持って言った。

「あぁん? あれはただのぬけさくだろ? ガキどももそんなこといってたぞ、せんせいは小さくてかわいくてなさけなーいって」

「でもあの人、初対面なのにチトセのこと、“彼女”って言ったわ。 “彼女”にお伝えくださいって、包帯でぐるぐるまきのあなたのことを、女だって、知っていた。 顔なんて見えないはずなのに」

「・・・・・・ それって、つまり?」

 はじめて花の都を訪れたメグルとチトセが、二人でいるところを見たものは少なく無い―― すなわち、昨晩のショーに参加していた関係者を除けば、シルバープリンセス本人しかいない。

「うふふ、すっかり騙されていた。 わたしもてっきり女の子だと思っていたけど・・・・・・ さあ、チトセ。 これから忙しくなるわよ」

「まっ、要するにいつも通りの展開ということか」

「そういうこと」

 メグルとチトセの頭はもうすでに、次なる手段にコマを動かしていた。





 翌日から、花の都に良からぬ噂が流布される。
 曰く、正義の味方気取りのシルバープリンセスが、トンデモない悪党であるということ。
 奴隷商人から奴隷を逃がすフリをして、実は別の奴隷商に高値で売り飛ばすことで私腹をこやし、気に入った奴隷がいればそれを持ち込んで、自分だけの花園をつくっているということ。
 そしてその事実を知った者たちは、皆プリンセス自身の手によって消され、口を封じられてしまう。
 当然、身に覚えのないマフユはそれがデマであることを知っていたが、中には考える改める都民もいて。また、被害はマフユ本人だけでなく、その周りにも現れ始めるのだった。

「ひっぐ、えぐ、ううう、うわぁああん、おとうさぁああああん!」

 聖堂の隣にある霊園。 新たにできた小さな墓と、粛々と行われる葬儀。
 幼女の深い悲しみを映し出すように空は鈍色の雲に覆われ、細雨が降り始めていた。

「・・・・・・」

 泣きじゃくる女の子を見て、マフユは悲痛に心を痛めている。
 その子はマフユがいつも勉強を教えていた子で、黒板の間違いを指摘してくれた、特に仲の良かった女の子でもある。

「聞いた、あの子のお父さん。 自警団員だったらしいわよ。 それで昨夜、シルバープリンセスを追いかけていて」

「えぇ!? じゃあ、あの噂はやっぱり本当だったの? 彼女の秘密知った者はその場で殺されちゃうって」

「あんまり大きな声では言えないんだけど、どうもそうみたい。 目撃者も何人もいるみたいよ、可哀そうに・・・・・・」

「世も末よねぇ。 わたし、あのシルバープリンスだけは本当にいい人だと思っていたのに」

 マフユは神父に代わって葬儀を執り行っていたが、耳に飛び込んできた情報を聞き逃さなかった。 同時に、ある思惑が頭の中に浮かぶ。

(これはわたしに対する警告だ、間違いない。 これ以上邪魔するなら、手段を択ばない。 そういうことか・・・・・・)

 前髪と分厚メガネの奥で、顔色を変えないでいるマフユ。 しかし爪が食い込むほど拳を握りしめて、試練に耐えていた。
 そんな中、幼女の鳴き声が延々と彼の中に響き渡る。

「うぇええええぇぇええんっ、ええん、ぇぇぇええんんんんっ」

 マフユは傍らに抱きついてくる、自分の偽物に父親を殺された幼女のことを慰めながら、その幼女の瞳に怨嗟の念がふくらんでいくのを見た。
 身寄りがなく、財産もなく、しかも旧市街で育ったという女の子を、引き取ってくれる物好きはいない。
 孤独と絶望が広がる幼女の生きがいは、皮肉なことに、カタキであるシルバープリンセスを恨むことだけだった。

(いけない、このままでは絶対にいけない)

 マフユの決断は早かった。
 深夜、葬儀が終わるとすぐに動き出す。
 信頼できる情報屋から、近く大きな奴隷オークションが開催されることを聞きつけると・・・・・・ それがワナであることは明白だった。

(わたしを試しているつもりなのか?いいでしょう、その挑戦、買ってやる)

 おそらく本物のシルバープリンセスであるマフユをおびき出すためのワナで、偽物も必ずここに現れるだろう。
 マフユは、それがどんな危うい橋であることなのか熟知していたが、親を失った幼女の泣き顔を思いだし、覚悟を決めた。
 マフユの自室は聖堂の三階にあり、隠し扉の向こう側に衣装を隠していた。 マントを翻し、少女騎士の衣装をまとう。 銀髪のカツラをかぶり、メガネを外し、薄紫色の蝶を模した仮面で素顔を隠したまま“誇り”たるレイピアを携える。

「いざいかん、悪の巣窟へ」

 シルバープリンセスとなったマフユは、巨大な満月を背に、再び夜空を舞った。


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 ・・・・・・ そして、マフユは辛くも勝利した。

「はぁはぁはぁ・・・・・・」
 
 マフユはかつてないほど疲れていた。
 オークション会場では今までとは比べられないほどの警備兵と罠が張りめぐらされており、偽のシルバープリンセスは自分とほぼ同等の力を持っていた。
 勝敗はどちらに転んでも可笑しくはなかったが、最後は紙一重、マフユが偽物を退けたのだった。 それにより悪の一組織を潰しただけでなく、信頼とプライドを取り戻すことに成功したが、その代償は大きかった。

(もうすぐ子供たちが目を覚ます時間だ・・・・・・ 急がないと.)

 東の空から朝日が昇る。 一番鶏が鳴き始めた頃、マフユはようやく戻ってきた。
 聖堂に入り、まだシルバープリンセスの姿のまま3階にある自室に、窓の外から飛び込んだ。

「おかえりなさい、プリンセス」

「―――― っ!?」

 部屋に入ると同時に、まばゆい光がマフユを照らす。
 聞き覚えのあるその声は、間違いなく黒髪の少女・メグルのものだった。

「う、うう、うう」

 マフユは目がくらみ、敵の人数の把握ができない。 3人のようでもり、10人以上いるような気もする。
 四方から取り囲む鏡の盾が、輝く朝日をマフユに向かって跳ね返していた。

(待ち伏せか!? ・・・・・・ こいつら、わたしの正体を知っている)

 ―― 瞬間飛び込んできた敵の吹き矢を、マフユは反射的に弾く。
 彼はまだ戦意を喪失したわけではなかった。
 マントをかざし、光に目をすがめながら、レイピアを握り締める手を緩めない。

「偽の情報、偽のシルバープリンセス・・・・・・ おとりに使うにはちょうどいい存在でした」

 光の中、メグルは余裕たっぷりに、無防備に、佇んでいる。
 しかし、マフユはまだ、彼女の正確な位置をとらえきれていない。

「んふふっ、さすがのあなたでもこの状態で一度に全員をやっつけることはできませんよ。 私も手荒なことはしたくありませんし、投降してください。 でないと、あなたの大切な生徒さんがひどいことになります」

 敵はマフユのことを良く知っている。 何を怖れ、何を大事にしているのかを把握し、それを実行するだけの冷徹さを持っている。
 満身創痍のマフユは静かに目を閉じた。

(惑わされてはいけない。 落ち着いて、声の居場所を探るんだ。 アタマを潰せば、いくら敵が多からとも奴らは動揺する。 その隙に皆を助ければいい)

 けれども失敗は許されない。
 マフユは呼吸を整えるとともに、目くらましの中で意識を集中させた。

「ひとつ、聞いておきたい」

「・・・・・・? なんでしょう?」

「わたしの正体を知っていて、なぜこんな回りくどい真似を?」

 黒髪少女・メグルは答えた。

「正義の味方気取りって、そのまま捕えて処刑しちゃうと、必ずそれを真似するお馬鹿さんが現れるんですよ。 だから二度と同じことをしように、あなたを徹底的に、生きているのが恥ずかしく思うくらい陥れる必要があるんです・・・・・・ 見せしめ、というやつですね」

 教え聞かせるように話す黒髪少女の死刑宣告に、負けるもんかと、マフユはにやりと微笑んだ。

「ふぅ、哀しいかな・・・・・・ 君は顔も頭もいいのに、どうやら心の貧しい人のようだ」

「自分の価値観だけで、幸福かそうでないかを判断するのは傲慢ですよ」

「傲慢か。 ならこの鼻、へし折ってみなよ――」

 マフユは勝機を見つけ、白のマントを大きくひるがえした。
 ―― メグルたちの視界から消えるマフユ。
 次の瞬間、天井からメグルの方に向かって滑空する彼の姿があった。

(―― そこだ、覚悟!)

 黒髪の少女がようやくこちらに気づいた時、すでにマフユは、刃のないレイピアを振り下ろそうとしていた。
 しかし、決死の覚悟で臨んだマフユではあったが、ひとつ見逃していた。
 黒髪少女の前に、別の小さな女の子がいることを、見えていなかった。

(な、なにぃ!?)

 驚き、マフユは一度下ろすと決めたはずのレイピアを、腕の筋が断ち切れそうなほど強引に、ストップをかける。
 寸前の所でなんとか停止したレイピアの先には、
 親を亡くし、マフユの教え子で、今年10を超えたばかりの女の子が、呆然と立っていた。

(しまった、これもワナか・・・・・・)

 ―― プスン。
 一瞬のスキをつき、また何者かの吹き矢が、今度は確実にマフユの首筋にささる。

「う、あ、あ・・・・・・」

 ゆっくりと毒が廻り、立っていられず、レイピアを杖にするマフユ。 もう逃げ場などなく、彼は最後にこう言った。

「や、やはり、いいコンビだね、二人とも・・・・・・」

 そして自分を見下ろすメグルとチトセという存在に、唾を吐いて意識を手放した。





 シェフィールドの都は騒然とした空気に包まれていた。
 都の自慢である新市街大通りには、絵画のように美しい街並みと、赤・青・黄色の花々が花壇から咲き誇り、20mごとには背の高い広葉樹の木が整然と並んでいる。その華やかな通りを占有し、一人の若い罪人が歩かされていた。

(我ながらなんと無残な姿・・・・・・)

 ―― 市中引き回し。
 それがシルバープリンセスに課せられた最初の罰。
 薄紫色のマスクと長い銀髪のカツラはそのままだった。
 首輪をかけて引かれているマフユは、両手を後ろ手で縛られ、ボロ布と化したシルバープリンセスの衣装で前面を隠しただけの格好だ。 風がそよいでマントが翻れば、白い裸体は容易に明るみとなり、血色の良い乳首を拝み見ることができる。
 かつて正義の味方として夜空を華麗に舞っていたヒロインが、無残な姿となり、卑しい囚人として登場したことを受けて、人々は目の色を変えて眺めていた。

「どうした? いつもみたいにキザッたらしい台詞で皆に話しかけてみろよ。

「・・・・・・」

 隣を歩くチトセの言葉に、マフユは口を堅く閉ざしている。 頬をわずかに染めただけで、目を閉じ、落ち着きを保っていた。

「ちぇ。 つまんねぇなぁ。 ・・・・・・ 昨晩はあんなに激しく乱れていたクセに」

 ―― たった半日ほど前、マフユは蹂躙されていた。
 軋むベッドの音と、肉と肉とがぶつかり合う音が、今も耳の中に残っている。
 華麗に舞う蝶も、羽をもがれてしまえば何もできない。男でありながら両性具有のチトセに寝る間も与えられずに後ろの穴を犯され、人間らしい言葉も言えぬまま、ケモノのように繋がっていた。例えるのならばそれは性欲処理のための人形のように排泄器官をしごきまくられ、身体中の穴という穴から体液を拭き出し、両手で数えきれないほどイカされ続けた。
 最初は嫌悪に満ちた表情を浮かべていた彼も、やがてメスイヌと揶揄されてもおかしくないほど表情を崩し、翌朝にはお尻だけがピクピクと肉栓を求めて蠢いていたのをチトセだけは知っている。

「・・・・・・」

 精根尽き果てて、並の男たちであればすでに心を壊していても可笑しくないはずだが、マフユは違った。 一度瞑想に入ると、裸に近い格好で引きまわされているというのに、気品さと敬虔さを取り戻していた。
 しかし、その白く輝く肌の内側はジュクジュクとした熱を帯び、悦楽の火種が今も本人の気づかぬところでくすぶっている。

「へへっ、まあ、そうでなくっちゃな」

 爛れた感情を持ち、メスとしての悦びを教えられたマフユは、清廉さを失った反面どこか世俗的な魅力を放っている。
 チトセは壊れない玩具を見つけたように嬉しんで、頃合いを見計らっている。

「シルバープリンセス様、お可哀そうに・・・・・・」

「ああ、とうとう奴隷商人たちに捕まってしまったのか。 この都の唯一の両親であるあのお方がいなくなって、いったいこの先どうなるんだ・・・・・・?」

「初めて見たときはもっとカッコよく感じたけど、実際、あんなにちっちゃい人だったのか」

「でも俺、シルバープリンセスの悪い噂もきいたことあるぜ」

 チトセはにやりとほくそ笑んだ。
 拘束されたマフユの周りに50人くらいの老若男女が集まって来ていて、思惑は様々だが、中には「放せ、解放しろ」など訴えかけるものも現れだしている。 しかし、裸に近い若い女の格好に、獣欲を掻き立てられている者たちも少なくなかった。

「みんな、聞いてくれ! この女・・・・・・ いいや、コイツは自分のことをシルバープリンセスだと名乗っているが・・・・・・ それは真っ赤なウソだ」

「――――っ!?」

 高らかに声を張り上げたチトセに、マフユははじめて反応する。

「みんなは騙されているんだ! 確かに容姿は似ているかもしれないが、コイツはシルバープリンセスを語る偽物。 今からその証拠を見せてやる!」

 そういうとチトセはマフユに近づき、スカートを剥ぎとった。 無論、下着なんてものは履かされていない。

「お、おいおい、なんだよありゃ」

「ウソ! あれって、男の子の・・・・・・」

「きゃああああああああああああ!」

 仮面の美少女にはあるまじき、逞しい肉棒がそそり立つ。
 それも薬によって強制的に勃起状態にされており、天を突き刺すような黒い影に、人々は凝視する。

「や、やめろっ!? みんな見るな! 見ないで!」

 マフユは激しく訴えるが、誰もそれを聞き入れない。
 チトセは再び口角を釣り上げながら、さも自分が正義の信者であるかのように訴えかけた。

「見ろよ! こんな浅ましいモノを生やしているのがみんなの知っているやつが、本当にシルバープリンセスか? シルバープリンセスってのは見目麗しい女の子だったはず。 そうだろ?」

 周囲は水を打ったように静まり返った。
 皆、心の中では答えは一つだったが、言いかねている。
 しかし、

「シルバープリンセスのお姉ちゃんは、お姉ちゃんだもん! こんな、こんな、変な男の人なんかじゃない!」

 無垢な子供の一言により、状況は最悪に一変した。

「た、たしかに、この子の言う通りだ」

「そうだよ、よくよく見ると、本物はもっと背が高かったし、もっと可愛かった」

「ああ、男であるはずがない、コイツは偽物だ! シルバープリンセス様の名をかたる不届きな輩め!」

 正常化バイアス。 人間の思考は、自分にとって都合の悪い情報を打ち消し、さも問題がないように思ってしまう思考。
 マフユは簡単に術中にはまってしまった都民を哀しげに、それでもどこか慈しむような目で見つめながら、また押し黙った。 今度の沈黙は抵抗ではない、何を言ってももう無駄だという、覚悟を決めた感情だった。
 それでも、剥きだしとなった肉棒は鎮まらない。 馴れない外気に触れて心地よさそうに蠢いている。 身体中の血が熱く滾っていくのは、薬だけのせいではないことをマフユは認めたくはなかった。

「それじゃあ、最近のシルバープリンセスの悪評も、奴隷を横取りしてみんな売り飛ばしたとか、私腹をこやし好みの奴隷を集めているとか、その目撃者を殺したとか、全部、コイツが・・・・・・」

「そうだ! そうに違いない!でなければ、あのお優しかったシルバープリンセス様が、変わられるわけがない!」

「な、なんてことだ、ひょっとして本物のシルバープリンセス様もコイツが!」

 もはやチトセが煽情する必要はなかった。
 ちりばめられた人々の感情はゆっくりと一つにまとまり、冷たく氷のような視線がマフユを貫く。 ジリジリと均等な距離を保って園になる都民の目には、同情の色などまるでなく、不穏な空気が重くのしかかった。

「反論したければしてもいいぜ、もっともこいつらがオマエの話に耳を傾けてくれるかどうかだが?」

「・・・・・・」

 これからマフユが、自分を慕ってくれていた人々にどんなひどい目に遭わされるのか、邪悪な興奮を浮かべるチトセに一喝。

「彼らを馬鹿にするな」

「なに?」

「人は誰しも間違いを起こす。 悪いのは、それを利用するものだ」

「カッコつけやがって、可愛げのないやつ」

 ちぇ、と唇を尖らせるチトセは、普通の女の子のように見える。 当てつけなのか、銀色の髪を撫で回したところ―― マフユの仮面に、腐った卵が飛んできた。

「―― うわぁっぷ」

 腐った黄身と白身が瞼の隙間に入ってくる。 きもちわるい。
 反射神経に優れているマフユでも、拘束されたその状態では避けることはかなわなかった。

「ヒトでなし! 変態! 俺たちのシルバープリンセス様を返せ!」

「みんなでコイツを懲らしめるんだ! ほら、どんどん投げつけてやれ!」

 家にある卵、店で売っている卵、それらを手に人々は偽物と思い込んでいるマフユを断罪しようと、次々に投げ込んでくる。 それも身の丈な小さな女の子から、腰の曲がったお爺ちゃんまで、マフユを軽蔑し、憎んでいた。
 銀髪も、顔も、胸も、お腹も、さらにペニスにさえ卵をぶつけられて、ドロリとした精液にも似た液体に、マフユは穢される。痛みに強いマフユではあったが、身体の痛みよりもむしろ精神的な痛みの方が圧倒的に高く、そして哀しい。
 淫靡で憐れな姿にされてしまった彼は、たまらず声をかけた。

「うぐっ、あ、や、やめて・・・・・・ やめて」

「黙れ! お前のような良心の欠片もないクズに、反論する権利なんてないんだよ」

「そんな」

 頭ではいくら高尚なことを願っていても、それを言われると心は傷つく。 自分が今まで愛してきた都民であればなおさらのことだった。

「だいたいなんだ、その股間のモノは! この期に及んでいきり立たせやがって」

「こ、これは・・・・・・」

 マフユは答えに困った。 仮面の下の可憐な容姿に反し、肉棒は収まるどころかますますグロテスクに増長し、今やビクビクと不規則な律動を繰り返しながら、周囲の人間を呆れさせていた。

(どうしてなんだ、なんで、こんなにも・・・・・・)

 ドクドクと、熱く脈打つ音が聞こえてくる。
 やはり薬だけのせいじゃない。 冷静のふりをして、自分がひどく興奮状態であることを自覚させられると、なおも肉棒が大きく跳ねた。 かつてない緊張と恐怖に耐えきれなかった脳幹が、それを軽減させるために脳内麻薬を分泌し、マフユをおかしくさせていた。

「変態! あんたみたいなのを真正のマゾヒストっていうんだよ」

「ち、ちがいます、わたしは――」

「うるさい、シルバープリンセス様みたいなしゃべり方をするんじゃない」

 ―― 瞬間、男の手にはムチがあった。 
 怒りに我を忘れた一人が、警備からムチを奪い取ったのだった。

「ひぎゃあぁあははぁあああああつぅ――――っ!?」

 風を鋭く切り、痛烈な音。
 ペニスの先端を打たれ、真っ赤な星が飛び散った。

(ぎ、ぎ、ぎはぁ、あ、あ・・・・・・)

 熱い血の通ったペニスに正確にムチを叩き込まれ、激痛を感じるよりも迅く、激しい雷が落とされる。
 マフユはピンッとつま先立ち。 ペニスとともに直立し、下肢を感電させていた。 しばらく呼吸もできず、チトセがその身体を支えていなければ、そのまま倒れてしまっていたであろう。
 さらに、ビリビリとした痛みでぼやけた視界の中で、もうすでに次のムチが振り下ろされようとしているのが見えた――

(だ、だめ―――っ!?)

「謝れ、シルバープリンセス様に、そして俺たちに!」

「いたっぁはぁあああああ――――――――っ!?」

 肉が弾ける音ともに、絹を引き裂くような声が木霊する。
 焼きがついたペニスに再びムチが入り、痛みと熱は倍化して肉棒を遡った。

「や、やめぇ、ち、ちんぽ、こわれ、ちゃ、うぅ、ちんぽ、こわれちゃいます!」

 口に出すのも憚れる単語を吐きだしながら、マフユは涙を流して懇願した。 しかし、

「そんなくだらねぇこと、俺たちが知るかよ・・・・・・」

「ひっ」

 打ち手が変わる。 ここには、マフユを可哀そうだと思うものは誰もいない。 白い眼差しに囲まれて、マフユは屠殺場にいれられたブタの気分を味わった。
 両手を縛られたまま逃げることも防ぐこともできない。
 振り上げられたムチを目で追いながら、マフユは顔を青ざめさせる。 ゴクリと生唾を飲んだとき、まだぶたれる前のペニスから、たらりと先走り汁が垂れだした。

「ぎゃほぁひあぁああああああああ――――っ!?」

 通算三撃目。 これ以上なく、しなりをつくって打たれたそのムチが、火花を散らした。
 血液が逆流するほどの衝撃と気が遠ざかるほどの痛烈に、マフユは白目をむいて倒れかけたが、チトセが首輪を引っ張ったことで無理やりに立たせている。
 畑の案山子よりもボロボロの衣装をまとった元正義の味方は、人々の怒りが静まるまで永遠にその身を捧げなくてはならない。 そしてその数は、時間が経つごとに増していき、さらに歪んだ熱気を膨らませていく。
 代わる代わる、人々はシルバープリンスへの愛をもって、マフユのペニスを蹂躙する。 壊れるまで――

「くそっ、くそっ、くそう! マゾヒストにはこれがたまらないんでしょ! 食らいやがれ!」

「ひふぅん! ぁあはぁ! ぎゃん! きぃ! はぎあ! あ、あ! や、やめ、うぎゃあ!?」

 ムチをしならせ、右に左。 鋭く短く早いテンポでペニスを打ち付ける。 鬼の形相で睨むその女は、決してマフユを許してはくれなかった。

「おらぁ! 見ろよ。 すっかりメス犬の顔になりやがって 何が『やめて』だ、おらぁ! 本性を! 見せやがれ!」

「ひぐうあ、ぎぃ、ごめん、ごめんな、さぁい! ゆる、ひ、でぇあ! ぎひぃいいん、いた、いだぁあい、おねがい、も、もう、ほんとに、ぎゃあ!」

 ブタよりもブタらしい声が漏れた。 痛いはずなのに、恥ずかしいはずなのに、その声に徐々に甘いものが混じっていく。

「俺たちのシルバープリンセス様の顔に泥を塗りやがって、お前なんか、奴隷でも家畜でもなんでもなって、一生苦しめばいい」

「ぞんな、ぞんな、ひどいこど、ううあ、ぐあああああ―――っ!」

 かぶりを振ってマフユは悶絶し、脳が劣情を受け止めきれずに意識が撹拌する。 赤ん坊のように真っ赤なペニスは、血管を浮き彫りにしながら火を噴いていた。
 普通の人間ではとっくに気を失っているというのに、不幸なことに、マフユはそれに耐えられるだけの精神力がある。
 聖職者であるマフユは、これらすべてを神から与えられた試練と思うこととした。 無理やりにでもそう考えなければならない。 神は決して信者を見捨てたりはしない。 例え自分が死ぬことになっても、後悔はしない。 この試練を乗り越えることで、人々の心に新たな希望の光が宿ることを信じていた・・・・・・

(ほ、ほんとうに・・・・・・)

 だが、心が揺らぐ。

(わたし、は、のりこえられる? このきもち、このかんじょうを・・・・・・)

 淫靡な炎に焼かれて、可憐な蝶は、ただの芋虫へと姿を変える。

(だめ、こ、これいじょうは・・・・・・)

 仮面の下の素顔が蕩けていく。

「はう!? あうらぁ! や、やらぁ! イ、イゥっ! ひっ、あぁらめぇ! はっ! イ、イッちゃう!? い、イッちゃうのぃ!?」

 ムチで痛めつけられるたびにマフユの中で何かが変わっていった。
 涎を滲ませ、赤々として痕をつけられるペニスが、彼を絶頂へと駆り立てる。

「はんぎゅああああああ――――!あ、ぎ、ぎゃああああああ―――!」

 何度目かのムチの後、マフユは咆哮する。
 花の都の色彩豊かな花の色が目まぐるしく視界を廻り、焼けた杭が亀頭を貫いたような衝撃に、心が真っ二つに割れる。 屈服と快感。 そして、高尚と呼ばれたマフユの精神は甘い毒に犯され、人間性は腐った果実のごとく踏みにじられた。
 大量の精液が糸を引いて亀頭から飛び散り、花の都の大通りを盛大に犯す。 花壇に植えられた花も、緑の木々も、白くねばついた液体が降りかかり、それがまた人々の恨みを買う。

(あ、あつい、ちんぽ・・・・・・ あつい、・・・・・・ わたし、の・・・・・・ ちんぽ・・・・・・ まぞ、ちん・・・・・・ぽ・・・・・・ やけど、しちゃう・・・・・・!)

 ふらふらと、マフユはその場に崩れ落ちたが、肩を大きく上下させる息遣いはまだ何かを欲してやまない。 彼がどれだけ弁解しようとしても、そこにいるのはシルバープリンセスでも、マフユという聖職者でもない、ただの一匹のマゾイヌだった。
 一方、チトセは――

「あーあ、卵の殻アタシの髪にまでついちゃったじゃないか。 ううぅ、これ、早く落とさないとカピカピになっちゃうやつだよな。 仕方がない、おい、ここのことはアンタたちに任せるから、アタシいったん帰るわ」

 軽い口調で、首輪をつなぐ鎖を警備の人に投げつけ、チトセは帰路につく。 
 その背後で狂気に駆られた人々に、マフユは飲み込まれていった。



 ―― 数時間後。

「ひへぁ、あ、あ・・・・・・ おゆるひぃを・・・・・・ あぁ・・・・・・ ごじひを・・・・・・ ひ、ひあは・・・・・・」

 明らかに正気を失っているマフユの瞳。 白濁に塗れた彼女はひゅーひゅーと乾いた吐息を漏らしながら、いまだ人々に対して謝り続けている。
 喉が腫れ上がるほど口腔を犯され、お尻の穴も真っ赤に焼けただれた姿は、想像するのも気が引けるほどの凄惨さを物語っている。 かろうじて蠢くペニスは、もはや雄々しさのかけらもなく、赤腫れした雌しべとなっていた。

「・・・・・・ で、チトセ、これはいったいどういうこと?」

「ははは、面目ない」

 頭を抱えるメグルに、チトセはごまかすように笑いをもらし、そして真摯に謝った。

「しっかりしてよねぇ、素人に壊されたって知られたら、せっかくの一級品がキズモノになっちゃうところじゃないの」

 それはこの世界で生きていく上で、プライドにもかかわる話。 苦楽を共にしてきた相棒に向かって、メグルはやんわりと釘を刺した。

「いや、本当に申し訳ない、反省するよ。 アタシだって、せっかく苦労して手に入れたれたアレが、二束三文の評価しかつかないのは悲しいしな」

 そういって屍同然のマフユを回収すると、すぐに彼の身体を清め、自分たちの鳥籠の中へと連れ込んだ。



 そこは貴族の部屋のようなつくりで、天蓋付きの巨大ベッドに、煌びやかなシャンデリア、金箔張りの豪奢な椅子。 床には赤い絨毯が敷かれていた。

「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・」

 マフユは紅潮したまま、呼吸は荒く、絨毯の上に腰を下ろしていた。
 銀色の髪はツインテールにして、美少女騎士の衣装はゴシック調のロリータ服。 ほっそりとした手足と青白い肌。 彫の深い顔立ちにはそれがとても良く似合っており、嗜虐心をそそる幸薄そうな雰囲気が滲み出ている。
 薄紫色の蝶を模したマスクは形骸的なものになりつつあるが、まるでマスクが顔の皮膚の一部になっているかのように、それを剥ぎ取ることを彼は半狂乱になって拒絶した。
 清廉さを失った蝶は、怪しい魅力に取りつかれた幼女となり下がり。
 ミステリアスな覆面騎士が、今やその名の通り囚われのお姫様だった。

「ご機嫌いかがですか、プリンセス」
 
チトセが、茶化すようには入ってきた。

「・・・・・・ なに、しに・・・・・・ きたん、ですか?」

 マフユは無表情さを装っていたが、ごくりと生唾を飲んだところを彼女が見逃すはずがない。
 むっふっふ、と喜悦を浮かべてチトセは犬のように首筋をかぐ。

「・・・・・・ 臭いな」

「・・・・・・」

「メスの小水の匂いがする」

「や、やめてください・・・・・・」

 マフユは力のない手でチトセを押し返すが、逆にその手を掴まれ、自らの股間を握らせた。

「これが、欲しいか?」

「馬鹿」

 けれども、スリスリとその感触を確かめている。
 男であるはずのマフユが、女であるはずのチトセの男根に反応し、初々しいメスの反応を示している。 性格もすっかりしおらしくなったマフユに満足したのか、マフユは彼の顎を持ち上げ、見つめ合った。

「可愛いやつめ。 以前のオマエだったら、唾を飛ばすくらいの気丈を見せただろうにな」

「う・・・・・・」

「でもいいんだぜ、アタシ、媚びるメスは嫌いじゃない・・・・・・」

「だれが――― んんぷぅ!?」

 気力を振り絞って食い下がるマフユではあったが、その唇をチトセは奪う。 荒々しい舌使いで彼の舌を絡め取り、ヘビのまぐあいのように舌愛撫すると、マフユの瞳が色を覚えて垂れ下がった、

「ぷっ、う、はぁ!」

「へへっ、身体はもうすっかり素直になっているじゃないか」

 チトセの眼下、ゴシックドレスのスカートを持ち上げながらマフユの肉棒がまた起き上がる。 こんな時ですら興奮し、本人ですらどうすることもできず、哀しいマゾの性に絶望してしまう。 
 マフユは、もうまともにチトセの顔が見られなかった。
 怖気づいたわけではなく、彼女にまたひどいことをされると思うと、身体が恋しがって咽び泣く。 そして心もまた変調しようとしていた。 彼が常に主と崇めたてる神様の前に、チトセというサディストの存在が立ちはだかる。 チトセは神ではないが、寡黙な神に代わって饒舌にマフユを試す。

「た、たのしいか?」

「あぁ?」

「こんなことして、たのしいですか?」

 マフユは、人生をかけてしゃべっていた。

「わたしは、きっとこのまま、貴方たちに好きにされて、シルバープリンセスの偽物として、どこか知らない遠くの国に売り飛ばされてしまうんでしょう・・・・・・ 奴隷として」

「ほー、わかっているじゃん」

 チトセは虫とり少年のように笑った。

「だけど、それ、でいい。 いいんだ。 わたしがいなくなることで・・・・・・ 人々の心のなかに、本物のシルバープリンセスが、生き続ける。 道は、指し示された・・・・・・ たとえ、わたしが、いなくなっても、きっと・・・・・・」

「あー、自分に酔っているところ悪いんだけど、それはどうかかな?」

「な、なに?」

 チトセは立ち上がり、ひどく残念そうに顎のラインをさする。 人を愛し、信じているマフユのことを、憐れんでいるかのようだった。

「人間はそこまで単純じゃないよ。 今日オマエが出会った奴の中にだって、内心オマエが本物だってわかっているやつや、そうでなくてもまだ疑っているヤツもいただろうさ」

 チトセの声は優しかった。 優しいがゆえに、それがウソではなく、彼女の経験則からくる一つの真実であることがわかってしまう。

「もしもこの先、本物のシルバープリンセスが現れなかったら、どうなると思う? きっと皆、あのときのシルバープリンセスが本物だったんじゃないかって、思うんじゃねえの」

「・・・・・・ 憶測だ」

「ははっ、かもな。 しかし、それはオマエの意見も一緒だろ? 要は、この先のことなんて誰もわからないってことさ。 一歩違えば、オマエとアタシは立場が逆だったかもしれないんだからな」

 マフユはチトセの瞳を間近から見てしまう。 奇妙な緑色をした虹彩の中心、黒い太陽のような目から、いくつもの細く赤い稲妻が放射線状に広がっている。 恐ろしくもどこか人心を惹きつけるその目に、マフユはみっともなく狼狽した。

「人を信じるなんて、それは考えることを放棄した奴の勝手な言い訳さ」

「ああ、あ、あうう・・・・・・」

 マフユは否定できなかった。 というよりも、否定の言葉を考えさせてもらえなかった。
 彼は瞬きすらできずに、生きる人形と化した。

「だけど、一つだけはっきりしていることがある。 それはオマエのことだ」

「ひや!?」

 チトセの足が、スカートを広げて足を投げ出していたマフユの股間を、ぐにゃりと踏みつけた。 痛いとも苦しいとも感じられずに、ただ怪しい掻痒感に震える下半身。

「オマエはもうもたない。 限界だ。 このままアタシがちょいと足に力を加えれば、堕ちる。 そしてもう二度と、余計なことは考えられなくなる」

「ううう・・・・・・」

 ぐいぐいと、足に、体重をかけてくるチトセ。
 浅ましくいきり立った肉棒、精液が詰まった睾丸が、欲情した快感を絞り出す。

「ほら、観念しろよ。 そんで、はっきりいいな。 奴隷になるのは、気持ちいいって。 自分が間違っていたって、いえよ、ほら」

「うぐぅ、い、いやだ、やだぁ・・・・・・」

 幼子のような言葉使いを漏らして、マフユは最後の架け橋を前にして佇む。
 一度渡ればもう戻れない、しかしそこに広がる桃源郷の景色に心が魅了されている。 イキたい、気持ち良くなりたい、もっとペニスを強く踏みつけて、そしてお尻穴をかき回してほしいのに、マフユの中の神はそれを許さない。 煩悩は罪だと、教本に書かれてあるたった一行の言葉に彼は従っていた。

「強情なやつだな。 いいのか、アタシは別に、このままオマエを放置してもいいんだぜ? 何時間でも、何日でも、それとも一生、悶々とした日々を味わうつもりか?」

「ふぐぅん?」

 イヤイヤと、マフユは首を振った。
 おあずけはイヤだ。 絶対に耐えられない。 イキたい。 しかし神様は裏切れない。 気持ち良くなるのいけないことで、ペニスをイジメられてイってしまうのは罪だ。 だけどマフユはもうメスの悦びを知ってしまっている。
 悩んだ挙句、行きついた答えはただ一つ――

「じゃあ、アタシがオマエの神になってやるよ」

「――――っ!?」

 衝撃が走る。 あっけらかんとしたチトセの姿に、マフユは後光を見た。

「今からオマエの神は、アタシだ。 何も言わずに、試練だなんだの言って、散々オマエを苦しめているヤツのことなんてもう忘れろ。 オマエは、アタシに従っていればいいんだよ」

「あ、あ、あ・・・・・・」

 とめどなく、溢れ出る感動。 涙で視界がぼやけ、マフユは打ち震えている。 「歪んでいる、間違っている、騙されている」 そんな言葉聞こえてきたが、すべて自身の心がかき消された。 徐々にマフユの顔つきが、母親を見つけた子供のようにあどけなく、可愛らしくなっていった。

「さぁ、もういいだろう? オマエはイキたい、そうだろう? 奴隷になるんだ、楽になれ、いいな?」

 これでもかというくらい頷く。
 神の愛情、お慈悲を手放さないように、頑なだったマフユの心は開かれた。
 言葉使いは悪いが、勇ましいその声はとても安心できる。 ただチトセに従っているだけで、ボロボロだった彼も天国を感じることができた。

「なる、なります! わたしを奴隷にしてください、お願いします!」

「ただの奴隷じゃないぞ。 男を捨てて、可愛い女の子になるんだ?」

「構いません。 くうぅん、女の子になってあなたに愛されたい。 あなたにすべてを捧げます」

「・・・・・・ 言ったな。 お尻の穴も自分で綺麗にするんだぞ?」

「貴方様の命令は、わたしの歓びです」

 一語一句、丁寧にマフユは飲み込んだ。
 元々信心深かった彼は、チトセという新たな主人を得たことにより、疑いようもなく淫欲に染まっていった。

「そうそう、それでいいんだ。 じゃあ、これからアタシのことは、チトセお姉様と呼ぶんだぜ?」

「はい、チトセさまぁ、チトセお姉さま!」

 マフユは、子犬が尻尾を振るようにそれを受け入れると、今まで以上に身体の感度が上がり、チサトの足が気持ちのいい波を呼び起こす。 仮面の下では下劣な表情を零し、目を回しながら、喘ぎ声を上げ続けた。

「ぁっん、っ、あはっ、しゅ、しゅごいよぉっ! あんっ、チトセ、おねぇしゃま、おねぇしゃまのあし・・・・・・ あひっ、あひっ、あひあひぃん!」

「いいか、イクときはちゃんとイクっていうんだ。 それが奴隷の礼節ってもんだぜ?」

「はひいぃ、は、はひぃん」

 昂る肉棒。 浮き上がる血管の山々を一つ一つ押しつぶすかのように、チトセはグリリと足先に体重を乗せて踏みしだく。 痛みと快感を天秤で図りながら、絶妙な力加減で股間を愛撫し、理性を吹き飛ばすほどの昇天へと駆け上がらせる。
 グチュンと反り返った亀頭がゴシックドレスに接触すると、新たな刺激に突如暴発した。

「んにぃあややあああああああ!? あああ、イク、あ、チンポ、イク!? マゾ、チンポ、い、いいい、イっちゃってますぅううううああああ、おねえさまぁあああああ!」

 感謝と、尊敬と、満ち足りた笑顔を浮かべながらマフユは、この世の春を味わい絶頂を迎えた。 華やかだった豪華な部屋も一面白い液体がふりかかり、濃厚な匂いが充満する。 従順となったマフユは自ら進んで這いつくばり、チトセの足先を舐めていた。

「今日はトコトンオマエをイジメ抜いてやる。 覚悟はいいよな?」

「はひぃ、もちろんです。 マフユの身体、どこでも、好きにお使いくだひゃい」

 お口マンコも、お尻マンコも、ペニスも、身体をみっともなくくねらせ、自ら進んでマユフは己を差し出す。 無茶苦茶に犯されたい、新しい神は自分の欲望をすべてかなえてくれた。 なんて幸せなのだろうと、マフユは恍惚に満ちた笑顔を浮かべていた。
 そのとき、ひらりと、薄紫色のマスクが落ちる。
 しかしマフユはもう、そのマスクになんの関心も示さない。 彼の瞳に映るのは、首輪をかける自分の主人だけ。 その素顔は、卑猥な精液化粧が施されたメスの奴隷だった。




 ―― その後、シルバープリンセスはオークションにかけられ、無事高値で売りさばかれることになった。

 
「しかし、はりきってオークションを始めたのはいいものの、結局シルバープリンセスとはなんの因縁もない変な爺さんが競り落としちまったな」

「でも、結果的によかったんじゃないの? あの子、相当奴隷商から恨まれていたし、運が悪ければ死ぬまで拷問にかけられてもおかしくなかったわけだから」

「なんだ、優しいじゃないか?」

「そうじゃないわよ。 せっかく苦労して捕まえて調教したのに、そんな簡単に殺されたらわたしたちの苦労も無駄になるでしょ? わたし、そういうのキライなのよ」

「はっはっは。 納得。 でもあの爺さん、なんだってあそこまで固執していたんだ? 別に他の奴隷でもよかっただろうに」

「さあ? あれは珍しい蝶だから是が非でも手に入れたいっていたけど、よくわからないわ」

「ひょっとしてそれ、ボケてんじゃないのか?」

「そういう風には見えなかったけどね。 ほら、お金だってきっちり払っていったし」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・ なあ、これってさ。 もしかして、シルバープリンセス復活のフリだったりする? あの爺さん、実はピンチを助けに来た仲間なんじゃないのか?」

「いや、それはないと思うけどね」

「どうして?」

「だって、あの人は――」





 その男―― マフユをオークションで競り落とした主人の趣味は、『昆虫採取』だった。
 3歳のころ、はじめて描いたのは白い蝶々の絵。 
 5歳になると、アミをもって一日中虫を追いかけ続け、8歳ごろから捕まえた昆虫の標本箱を積極的につくるようになり、10歳のときには、レポートの宿題で出した昆虫の観察日が、とても評判のいいものとなった。
 12歳。 彼の昆虫コレクションは、家中の壁一面に標本箱が並べられるほど大きくなった。
 18歳。 その分野で博士号を取る。
 そして、20歳のころから、彼は誰も見たことがない美しくも珍しい蝶を追いかけて、世界中を渡り歩き・・・・・・ 満60歳の今に至る。

「・・・・・・・・・・・・」

 マフユの乳首に、小さな蝶が止まった。
 ピンク色の隆起に向かって長いストロー状の管を伸ばし、花の蜜を吸おうとしている。 そのささやかな疼きにも彼は微動だにせず、瞳にはまるで生気が感じられない。

 円柱型のガラス張りのケースの中で、裸のままマフユは生きる剥製となっていた。
 日当たりのいい大広間には彼と同じようにケースに閉じ込められた生死不明の人の剥製があって、みんな身体のどこかに蝶を模したタトゥーが刻まれている。 それらはそれぞれ微妙に品種が異なっていて、とりわけマフユの身体には計4か所―― 背中、右胸、太腿、左ふくらはぎなど、360度どこからでも蝶のタトゥーが入っている。
 そして、他の標本たちと違い彼だけは唯一シルバープリンセスのときの蝶を模した仮面をしたまま。 マフユとしても、奴隷としても、その素顔を晒すことはない。

 時折、その鮮やかな色合いに惹かれた昆虫の蝶が、交尾しようと近づくこともあるのだが、それ以外彼の肌に触れる存在はいなかった。 マフユを買い取ったご主人様でさえ、ガラスの向こう側から視姦するだけで、声すら聞こえてこない
 そのままいったいどれくらいの時間をすごしたのだろうか。
 奴隷として生きることも、殉教者として死ぬこともできず、時間だけが流れいく。
 何日、何か月、何年・・・・・・
 そこは悩みもなければ争いもない、平和で、平穏な、天国だった。