妖精がいる世界 2.注文の多い仕事




 喫茶『ライスシャワー』。
 慌ただしい店内を、小さな頭が元気に動き回っている。 ゆるふわな髪に色っぽい垂れ目と、時に溌剌とした笑顔を浮かべながら愛嬌いっぱいに振りまく。 器用にトレイを運ぶその店員は、店内にいるお客さんだけでなく、偶然通りがかった人々の心さえ惹きつけ、笑顔の花を咲かせていった。
 しかし中には自分の欲望に逆らえないお客様もいて、魅力あふれるその店員を呼び、あえて注文に迷っているフリをしながら小ぶりなお尻に手を伸ばそうとするが、

「・・・・・・ ちょっと、お客さ〜ん? 男のお尻なんて触って楽しいですかぁ?」

 恥ずかしがることもなく、アハハと笑い。
 もう慣れっこですよ、とアッカンベー。
 その美少女もとい若人は、あえて制服の襟元を開くことでペタンコの胸を見せつけて、痴漢にもまわりにも男であることを雄弁に証明する。
 狐につままれたかのようなその不埒な客は、ポカンと口を開いたまま固まった。 だがしかし、その若人はさして気にしたそぶりも見せることなく、またいつも通りに和やかな雰囲気を醸し出していたので、痴漢本人もまたぷっと拭き出し頭をかいた。
 その後も若人は皆に等しく優しい。 そして多少のドジやミスはあったが、何事にも一生懸命な姿が魅力的に映った。

「いい子よね?」

「いい子だな?」

 ほっこりとした顔で見合う、人さらい二人。
 メグルとチトセは『80点』『75点』と各々評価し、いつまでに、どのように仕上げ、どのように着飾るかを当人の知らぬ間、その場で打ち合わせをしていた。
 そのうち、獲物の方から彼女たちに近づいて、

「ねえ、アナタ、今いくつですか?」

「アハ、いくつに見えますか?」

「うーん・・・・・・」

 メグルは自分と近い年の数を上げ、そして若人は驚いた。

「すごいね、お客さん。 俺の年齢、ぴたりと当てたのはお客さんがはじめてだよ」

 曰く、いつもはもっと年下にみられることが多いらしい。
 小柄で線の細い体格と、『小動物系』の可愛らしい容姿のせいで、愛されるキャラクターであることには間違いのない若人は、喫茶店だけでなくこの街のマスコットボーイとして人気があった。
 街を歩けばアメ玉やクッキー、チョコレートなど子供の喜びそうなものばかりをタダで配られて、女性からは『妹になってください』『お持ち帰りさせてください』とか、男性からは『こんな可愛い子が女の子のはずがない』と訳の分からないことを叫びながら、強引に迫ってくるものもいるといった。

「モテモテじゃん、ええっと――」

「ナツメです。 なかなかナイスした名前でしょ?」

 チトセが感想を言い、そして若人は名札を見せて名乗った。
 ちょっとしたカッコイイポーズを決めるのは、彼のクセなのかもしれない。

「アタシはチトセ、こっちはメグルっていうんだ」

「よろしくねぇ」

 メグルは上品に手を振って答えた。

「黒髪が綺麗な、いかにもお嬢様っぽいのがメグルさんで、カレーライス6杯のアグレッシブルな感じの君はチトセさんね。 オーケイ、もう覚えたよ」

 少年らしい憎い笑顔を振りまき、またせっかくに戻っていく。
 彼はチトセたちだけでなく、他のお客にも老若男女問わずフレンドリーに接し、一度会ったことのあるお客なら顔も名前も憶えているという、記憶力と誠実さがあった。 どんなに忙しくても、老人の与太話や恋人への愚痴でも、それを楽しそうに接しているのがさらに好印象だった。

「85点」

「80点、プラスα」

「チトセ。 インセンティヴは後でもめるからナシって、この間決めたじゃない?」

「そうだけどさ、あの子はなんか面白い」

「またそういう直感に頼って・・・・・・ でも、今回はちょっとその気持ちがわかるかも」

 子兎のように店内を駆け巡るナツメを見て、二人の意見は合致する。
 彼女らの目に、ナツメが来ている喫茶店の制服は、純白のウェディングドレスに映っていた。
 その十数分後、再びナツメを呼ぶ。

「チトセさん、メグルさん。 お会計でいいんだよな?」

「ええ、お願いします」

 ナツメは笑っていたが、少し困ったような感じだった。 というのも、

「あのさ、みんなにも言ってるんだけどさ、ここ、『ご指名』とか『チェンジ』とかそういうシステムないから、次からは俺指定なのはやめてくれよ。 困るから」

「だからいったじゃない、チトセ・・・・・・ うふふふ」

 あからさまにチトセをじっと目で威圧しながら、ナツメは口を尖らせた。
 けれどもチトセは拝むように手を合わせると、すぐにまた垢抜けた笑顔で許してくれる。

「なあ、ナツメ、あんた、彼女とかいるのかい?」

「なんだい、やっぱり俺を逆ナンしようっていうのか?」

「・・・・・・ 悪いか?」

「ほー、カレーライス6杯の人は、正直な人なんだなぁ」

 ナツメは言われ馴れた感じでチトセのアプローチに、一切靡くことはなかった。 仕事を優先してお会計を済ませて、二人のために扉を開けてあげると、二人だけに告白する。

「ねえ。 向かいの店、花屋になっているだろ? あそこで働いているのが、俺っちのフィアンセさ」

 ナツメは自慢げに手を掲げる。
 視線の先には決して繁盛しているとは言えないが、小奇麗な花屋があり、お下げ髪の女の子が汗を流して花の手入れをしているのが見えた。

「あら、可愛い女の子ですねぇ」

「だろ? だろだろ。 美男美女のカップルってやつさ」

「あはっ、自分で言うか? それにどちらかといえば、美人百合カップルだけどな?」

「そいつぁいっちゃあいけないよ、チトセさん」

 チトセはおどけた調子で笑い、そしてナツメの横腹に肘を当てた。

「二人は、付き合って長いんですか?」

 今度はメグルが尋ねる。

「幼馴染だからね、気が付いた時はずっと一緒にいるよ」

「・・・・・・ そう、それは残念です」

 メグルはナツメに向かって優しく笑いかけ、忙しさにかまけて、少し曲がっていた襟を正した。 本当は年も近いというのに、それはまるで母親のような振る舞い身嗜みを整えたので、ちゃんとしなくてはいけませんよと、諭しているかのようだった。
 チトセはそれを見ながら、もう一度ナツメの恋人に目をやる。これまでとは打って変わり、冷たく、値踏みするような視線だった。・・・・・・ 65点と、誰にも聞かれずにつぶやく。

「ははははっ、これでナンパを諦めてくれるなら俺も助かるよ。 でも、メグルさんもチトセさんも面白い人だし、またよかったお店に来て。 デートとかはできないけどさ、おしゃべりとかなら付き合うからさ」

 ナツメは外の風にゆらされる髪を、耳の後ろにかき分けて、爽やかに別れを挨拶した。 それはリップサービスなどではなく天然で、そうやって色々な人を常連客に変えている。

「そうね、そうさせてもらおうかしら」

「また目の保養にくるぜ、ナツメ」

 二人は約束する。 しかしそれは、他のお客たちとはまるで決意が違う。

「では、お客様。 またのご来店、お待ちしていまぁす」

 ナツメは最後の瞬間までいい子だった。
 希望をもって働き、人を尊敬し、きっとこの先の人生も、順風満帆幸せな毎日を送るはずだった。





 別の日。
 白昼の貴金属店の前に、私服姿のナツメの姿があった。

(まいったね、こりゃあ・・・・・・)

 ナツメは働いている時とは異なり、愛らしい顔に憂いの色を浮かべ、まるで悪夢にうなされているかのように唸っていた。
 艶のいい白桃色の頬を赤らめながら悩みに悩んでいるのは、目の前にあるショーウィンドウの中。 高価なエンゲージリングについて。 いくら計算しても、自分の貯蓄では足りない。
 ナツメはどっとため息を漏らし、そして再び顔を上げると――

「おっ、この間の痛快少年発見。 ナツメ、どうした、なんか、元気ないみたいだけど〜」

「悩みがあるのなら、『お姉さん』たちが相談に乗りますよ。 私たちこれからまた食事にいくところなんだけど、よかったら一緒しませんか?」

「あははは・・・・・・ なんか二人とも声のかけ方が手馴れているよね。 ひょっとしてスカウトの人? でも、ありがとう」

 ナツメはショーウインドウから離れ、顔なじみとなったメグルとチトセに挟まれる。身長差が歴然として、彼は少し羨ましそうに二人を見上げた。

「なにを見ていたんですか?」

「別に何でもないですよ、気にしないで」

 ナツメはごまかそうとするが、いかんせん横目でまた、指輪の値札を追ってしまった。

「ん? あれは、素敵な指輪ですね。 ふーん、ペアになっているんですか」

「ぎくっ」

「ひょっとして、花屋のカノジョにプレゼントするつもりなのか?」

「ぎくぎくっ」

「わっかりやすい反応するなぁ。 なんだよ、さっそくラブラブっぷりを見せつけやがって・・・・・・ 羨ましいぜ、こんな素敵な指輪を贈られたらきっと、恋人はアンタのことを惚れ直すこと間違いないな」

 軽い冷やかしのつもりだったのだろうが、思わぬところでナツメが食いついた。 彼は目を見開いたままチトセに迫る。

「それ、ホントにそう思います?」

「お、おう、そりゃあ・・・・・・ 恋人に指輪を送られて、喜ばないやつはいないだろ?」

「・・・・・・」

 何気ない彼女の感想がナツメの期待感を膨らませ、そして同時に抗えない現実がより鮮明に見えてきてしまったようだ。

「・・・・・・ すみません、実は、そうじゃないんです。 いえ、買いたいのはヤマヤマなんだけど」

 確かにナツメはこの指輪―― エンゲージリングが欲しい。
 恋人に送るためであり、なにより結婚を申し込むために必要なものだ。 しかし、

「お金、足りないの?」

 メグルが代弁し、ナツメに気を使って、盛り上がるチトセを諌めた。

「・・・・・・ うん、情けない話、お金がない。 べつに食べる分にまで困っているわけではないけど、うちもなにかと入り用でさ」

 それでもコツコツと、ナツメは結婚資金をためてきた。
 他にもバイトを掛け持ちしたりして、同世代の友人たちが色々と遊び回っているときも、一人黙々と作業に励んだ。 贅沢なことも大抵は我慢している。

「ふーん、でもさ、別にコレじゃなくてもさ、もっと手頃なのもあるぜ、ほらアレなんか半値で売っているし」

「・・・・・・」

 チトセが矢継ぎ早に宣伝するが、ナツメは力なく笑い、黙って首を振った。 そこにメグルは気づく。

「あれじゃないとダメな理由があるんですか、ナツメさん?」

「うん、これも大した理由じゃないんだけどさ」

 メグルに上手く促されて、ナツメは昔を懐かしむように話しはじめた。。

「子供の頃、約束したんだよ。 このメーカーのこのデザインの指輪を見た時にさ、カノジョは初めて『これが欲しい』ってはっきり言ったんだ。 今までずっとそんなこと言ったことがなかったからさ、俺が絶対にプレゼントするよってそのとき約束したんだ」

 最初は優しく、けれども途中からどこか悲しげな話し方だった。 ナツメはあの頃からずっと花屋の恋人のことを好きでいつづけているのに、好きな女の子のたった一つの願いをかなえられないことが、彼の唯一の悩みだった。
 メグルたちはその話、そしてナツメの想いをしっかりと見極めて、彼の肩をたたいた、

「いい話じゃないか、あたし、感動しちゃったよ」

 驚くことに、チトセはちょっとした涙まで浮かべている。

「カレーライス6杯の人はほんと単純だなぁ? 自分で言っといてなんですが、わりとよくある話だと思いますよ」

「そうかもしれませんが、実行しようとする人はそんなに多くないはずですよ。 わたしも、ナツメさんの恋人さんは、本当に幸せ者だと思います」

「へ、へへっ、そうかな? そうだと、嬉しいんだけど」

 褒められて照れるナツメは、やはり恋している男の子で、好きな女の子のために頑張ろうとする姿は、とても可愛らしく写った。
 人には人を幸せにする力があるという。
 しかしナツメの場合、好きな人だけでなく、そこに関わった人たち全員を幸せにしてしまう魅力があり、そしてさまざまな人たちを惹きつけてしまう。

「・・・・・・ カノジョにさ、もっと自信を持ってほしいんだよねぇ」

 ナツメは声色をガラリと替え、頭の後ろで腕組みしながら、少しだけ不満をつけたした。 ただそれは、不満というよりは、深い愛情ゆえのお願いだった。

「あの子、基本自分に自信がなくてさ、未だに俺が本当にカノジョのことが好きだってこと、信じてないみたいなんだよ。 ・・・・・・ この前だって、メグルさんと話している姿をカノジョに見られちゃったみたいで、後ですんごい怒られたんだから」

 これも、“よく”ある話なんだけどね、とナツメはニュアンスを変えて付け足す。
 ナツメの恋人は、なんでもそつなくこなすナツメのことを、同じ立場の恋人として劣等感を抱いているのかもしれない。

「そんなに俺って、軽い人間に見えるのかな?」

「自分ではどう思いますか? 女性経験は豊富?」

「そうだなぁ。 みんな色々と言い寄ってくれるけど、男の子として意識してくれるのはカノジョだけだし、まあ素早さと防御力はマックス高いけど、生命力は2〜3みたいな?」

「なんか、アンタを倒したら経験値すっげえもらえそうだな」

「でもすぐに逃げ出してしまいそうよ?」

 チトセとメグルは、順々に茶化して話を切り終わらせた。

「ハッハッハッハ、本当に面白い人たちだなぁ」

 気が付けば随分と話し込んでいた。
 心の憂いは消えないが、少なくとも明日からまた仕事をがんばろうと思えるくらいにナツメは回復し、チトセたちに別れを告げた。 この後すぐ、次のバイトが残っているし、遅れるわけにはいかない。 それでも指輪を買うにはまだ遠い道のりだけど・・・・・・

「なあ、ナツメさん?」

「うん?」

 メグルと話し込んでいたチトセが、こちらを安心させるような笑顔で提案してきた。

「もし本当にお金に困っているんだったらさ、ちょっといい仕事があるんだけど」

 ナツメの耳が、ピクンと、ウサギのように愛らしく反応するのだった。





 その村で一番大きな宿屋。  
 ナツメは生まれてからずっとこの村で育っているが、ただの庶民であるナツメははじめてそこを訪れていたので、珍しく緊張した面持ちなのもそのためだった。
 彼はチトセに教えられた部屋の前に立ち、静かにノックする。

 コンコンコン。

「はい、どちらさまでしょうか?」

 扉越しに女の人の声がする。 予想よりもずっと若い。

「こんにちは。 ベビーシッターのお仕事の件で、面接にきました。 ナツメといいます」

「あぁ、ナツメさんですか。 どうぞ、入ってください」

「はい」

 どんな子がいるんだろう、どんな人が雇い主なんだろう、緊張はいつの間にワクワク感へと変わる。 目的を忘れず、でも楽しむことも忘れない。 それがナツメのワークスタイルであり、才能でもあった。
 扉が開かれると、恐れることなくナツメは笑顔で踏みこんだ。

(待っていろよ。 このバイトが受かったら、すぐに迎えに行くからな。 今度こそセレブレティなプロポーズ決めてやるからな)


 ―― ナツメにとって、そのバイトは願ってもないチャンスだった。
 チトセは言った。

『お金持ちの女性が、急遽、娘の面倒を見てくれている人を募集している。 しかもその人は子供をいることを知られたくないらしく、広告や宣伝もなく、極秘に雇い人を探しているんだ。 色々とワケありなんだけど、その分、報酬もずっと美味しい・・・・・・ やってみるか?』

 ナツメは悩んだ挙句、他の仕事を一時的に休み、その仕事に専念することにした。
 もちろん、仕事上の注意事項として他言無用が義務付けられているため、恋人にも家族にも黙ったまま。
 申し訳ないと思う反面、これで本当にお金が手に入れば、いいサプライズプレゼントになるのではと、そんな考えもあったのだが―― それよりも先に、ナツメ自身が驚かされることになった。

「はじめまし―― てって、え、えええ!? メグルさん? どうして?」

 自分の部屋よりもずっと広い間取。 嫌味にならない程度に整頓されて、インテリアにもセンスを感じる。
 中央に位置するテーブルの向こう側に、メグルが黒髪をかきあげながら笑っていた。

「ふふふふ、まあ、落ち着いてください。 ナツメ、さん。 どうぞ、面接を始めるので、そこへおかけになってください」

 ナツメの心は複雑だった。
 驚かされたことに対する不安、見知った顔で良かったという喜び、ひょっとしてすべてが嘘だったのではないかという疑念、それから恋人に対する申し訳のなさ、様々なものが様々なカタチで、ナツメの小さな胸の中でひしめき合った。
 そのせいで、いつもは笑顔のナツメも、このときばかりはいったいどういう表情で応じればいいのかわからず、ふにゃふにゃの頬を両手で揉みしだきながら席に着いた。

「驚かせてしまってごめんなさい、ナツメさん。 でも安心してください、お仕事の話はウソじゃないですから」

「ほんとですか?」

 ナツメは表情を隠したまま猜疑心を強くする。 
 メグルは確かに上品な女性であり、お金持ちの娘であることも素直に信じることができたが、とても子供がいる様な年齢には見えない。
 たしかに母乳はでそうではあるが・・・・・・

(―――― はっ、いけないけない。 なにを思っているんだ俺は)

 いつもはまるで気にしない女性の身体を、ナツメはいつも以上に意識してしまう。
 それもそのはず。
 外では奥ゆかしい清楚な女性だったメグルが、部屋では黒いキャミソールを着ていて、そのセクシーさとギャップに目頭が熱い。 胸の谷間は丸見えで深く、薄生地からこぼれそうな豊満な乳房は、とても年の近い少女とは思えぬほどの弾力性に満ち溢れている。
 そして、ナツメを悩ませるのがもう一つ――
 それはナツメの恋人である花屋の少女が、自信の胸にコンプレックスがあること。 彼女は、ナツメの胸を多少盛り上げた程度にしか膨らみがなく、彼はそれを知っているだけにこの状況をひどく心苦しく思った。

「あ、あの、さ、ちょっとタイム、いいですか・・・・・・?」

「どうかしました、ナツメさん、顔が真っ赤ですよ?」

「そりゃあ真っ赤にもなりますよ。 俺だってやっぱり男ですし、目のやり場にすごく困ります・・・・・・」

 気持ちが落ち着かず、身体を漕ぎながら不満を口にするナツメ。

「それは申し訳ありません。 でも困りましたね・・・・・・ 私、家ではいつもこの恰好で休んでいるものですから。 ナツメさんも、最低5日間はうちで過ごすことになるわけですから、少しは我慢していただくことになりますが?」

「うっ」

 悔しいが、正論だと思った。
 仮とはいえここはメグルの家であり、家の中でどんな格好をしようとメグルの勝手。 そして自分は、そんなメグルの家で働くわけなのだから、そのルールも雇われ人は当然受け入れなくてはならない。

「わかりました、今の言葉は取り消しさせてください」

「ふふっ、そんなかしこまらなくてもいいですよ。 それから、面接何て形式だけですから、いつも通りフランクに話してもらって結構ですよ」

 曰く、ベビーシッターの募集は本当だが、実際に来たのはナツメ一人だけだという。
 メグルは「ミルクはお好き?」とナツメに聞き、
 「嫌いじゃないです」というと、
 今度は「チューリップとヒマワリではどっちが好き?」
 「イチゴさんとさくらんぼうさんならどっち?」
 「ピヨピヨひよこさんと、にゃんにゃん子猫ちゃん、一緒に遊ぶのならどちらがいいかなぁ? 好きな方に、元気よくお手々を上げてねぇ」と続けてきた。
 質問の意図はわからなかったが、きっと預かる子供に関係するものなのだろと思って、次々に回答した。みんな可笑しな質問ばかりで、やや返答に困るものもある。

「はぁ〜い、たいへんよくできましたね。むずかしい質問もあったのに、がんばって全部答えられて、えらいえらい、ですよ。 ふふ、ひとまずこれで終わり、おつかれさまぁ。 楽にしてくれていいですよ・・・・・・ あっ、もし疲れているのなら、そこで横になってくれてもいいからね」

「は、はぁ?」

 ナツメはひきつった笑みを浮かべている。
 質問の途中から段々とメグルの口調が変わって来ていて、まるで幼子を相手にしているようだ。 しかし、先ほどの手前それを突っ込んでいいことなのかどうか迷ってしまって、

(ま、まあ、家で子供相手ばかりしているから自然と口調もそうなっちゃうのかな? あまり深く考えるのはやめておこう)

 メグルの意外な貌を知った気になるナツメではあったが、そろそろ本題に入りたい。
 契約内容を確認するのを後回しにして、尋ねた。

「メグルさん? さっきからお子さんの声が聞こえませんけど、今、どちらにいるんですか?」

「それがねぇ、今はまだ、眠っているみたいなのよ」

 うふふと、メグルは笑い、その瞳でまっすぐにナツメを見ていた。

「そう、ですか・・・・・・ じゃあ、俺は今日、いったいなにをすれば?」

 せめて顔ぐらい見ておきたいと思ったのだが、寝ているところを起こしては忍びない。
 早く仕事を覚えたいと張り切るナツメに、メグルがふわりと肩をたたいた。

「そうね、必要なのはまず、お着替えね。 チトセが手伝ってくれるから、ぬぎぬぎしましょうか?」

「は、ぬぎぬぎ?」

 ナツメが「ばんざーい」と言わされて、女性に服をぬがされたのはそのすぐ後のことだった。





「なんか、変な仕事を引き受けちゃったなぁ」

 赤ちゃんのために身体を清潔に、綺麗にしてほしいと言われ、ナツメは言われたとおりに身体を念入りに洗った。
 短い髪はサラサラ、元々スベスベだったお肌はさらにスベスベと輝いて、身体中からほのかにいい匂いが漂っている。 だけどまだ、足りないと、メグルが。
 
「マジ、変な仕事を引き受けちゃった・・・・・・」

 ナツメは、カミソリ、と呼ばれ冷たい刃を肌に当てる。 髪と眉以外の全ての毛を剃ってと笑顔で命じられて、やはり元々毛の薄かった全身をさらに綺麗にしていく。 馴れない作業なのでやや緊張したが、恋人のためだと思って覚悟を決めた。

 じょり、じょり、じょり。

 すね毛。

 じょり、じょり、じょり。

 腋毛。

 じょ〜り、じょ〜り、じょ〜り。
 
 陰毛も。
 細心の注意を払い、大人の象徴とされるアソコの毛を丸裸にしていく。
 恥ずかしすぎてナツメの顔は真っ赤。 流石に、ここまでしたのだからもういいだろうと思ったが、全然違った。

「終わりましたよ、チトセさん」

「よし、それじゃあこっちきてくれ」

「いや、俺、裸なんですけど」

「そっちの方が都合がいいんだ、ほら、早く」

 仕方なく、タオルを腰に巻いて、王様が座るような大きな腰掛け椅子に座らされる。 なんだか変な気分になってくるのは、部屋の隅に置かれているお香のせい。
 毛の次はツメも綺麗にすると、チトセが言った。

「あ、あの・・・・・・」

 パチン、パチン、音が鳴る。

「なんだ・・・・・・?」

 パチン、パチン。

「いや、自分でできますよ、ツメ切りくらい」

「いいからいいから。 自分でやるのと色々と勝手が違うものだろう・・・・・・ ヤスリ、当てるぞ」

「うーん・・・・・・」

 ナツメは、王様気分といえば聞こえはいいが、所詮は借りてきた猫。 存外居心地が悪い。
 チトセはその傍でかしずいたまま、恭しく彼の手を取り、道具を使ってツメを切って、丁寧にヤスリで丸みをつくっていく。 とても馴れた手つきだった。 ナツメの、細い手首、白魚のような指、ピンク色の爪、口づけでもしそうな顔で入念に眺めている。 両手が終われば、両脚も同様に、大事にされすぎて、なんだか身体中が落ち着かない。

「次はクリーム塗るぞ、牛乳のクリームだ」

「ええ〜。 まだ、やるんですか?」

 元よりじっとしておくことが苦手なナツメは、さすがにうんざりとした表情を浮かべる。

「当たり前だろ? 赤ん坊ってのは、肌がデリケートなんだから、これは外せないね。 全身くまなくつけるからな」

「・・・・・・ はぁ、わかりましたけど、なんだか割に合わないように気がしてきた」

 もちろん、ナツメが自分で自分の身体を塗ったりはしない。 すべてチトセの手に委ねられるのは当然の流れ。
 むっふっふ。 いやらしい笑みを浮かべるチトセは、白くて、透明感があって、いい匂いのするクリームをたっぷり、まずは自分の両手に塗りたくり構える。
 ナツメは娼婦の相手すらしたことがなく、童貞で、純情で、なのに今はタオル一枚で無防備な姿でいる。ドキドキと、これから初夜を迎える花嫁のごとく、緊張した面持ちで固くなっていた。
 そのいつもより神経質になった敏感肌に、いやらしくチトセの手がすべる。

「ちょ、ちょ、ちょっとチトセさんっ!? なんか、手つきがエッチぃぽいんですけど!?」

「気にすんな。 男だろ、もっと堂々としろ」

「うひゃあん! ヘルプヘルプ!」

 チトセの手つきはいやらしく、その眼差しは怪しい。 嫌がるナツメにしなだれかかり、横から肩に顎を乗せてくる。
 彼女の手が、ねっとりと首筋から鎖骨のくぼみをたどって、綺麗になった腋の下を伝い、薄い胸板からあばら骨を撫で回した。

「う、うううっ、う、ひんっ」

 くすぐったさと淡いもどかしさを抱かいたまま、ナツメはプルプル震えながら、表情が「へ」の字に曲がった。
  
(や、やだ・・・・・・ なんだ、これ・・・・・・ なんか、はずかしいぃよ・・・・・・)

 チトセは、生温かいクリームをよーく肌に馴染むように、執拗な優しさでナツメの身体をいじくった。

「う、んんんっ・・・・・・ ふぁ・・・・・・ っっっっ!?」

 蹂躙と愛撫の、その間を漂う。
 チトセはナツメの、乳首も、乳輪も、やがてお尻とお尻の間も、太腿の付け根も、アソコに触れるそのギリギリにまで、手を這わしてクリームを塗りたくってくる。
 クリームは最初、少しヒリヒリと肌を焼くような感触があったが、浸透するとぽーっと肌が火照ってくるのがわかってきて、否が追うにもくぐもった吐息が漏れる。

(うぅぅん、お、おれ、なんか・・・・・・ なんか、ムズムズしてきたぁ・・・・・・ このクリーム、俺の肌にあっていないのかなぁ)

 くねくねと、ナツメは身体をよじった。

「どうした? 変な顔して」

「ううん、な、なんでもありません・・・・・・」

 ・・・・・・ ナツメは言えなかった。
 気持ちいからもっと続けてくれと、もどかしいからもっと強くしていいと、言えなくて肌の裏側で淫靡な熱がくすぶり続けていた。

「じゃあ次はコレ着てくれるか?」

「・・・・・・。 やっぱりまだあるんすね、はぁ」

「イヤなのか?」

「いいえ、もうここまで来たら、ラストまでとことん付き合います」

 ナツメは不満だったが、もう色々と諦めた。
 しかし、ため息をついて目を伏せたところで“服”を当てられたとき、再び目も覚めるような驚きが突き抜けた。

「たしか、ナツメちゃんはチューリップとイチゴが好きだったよな。 それじゃあ、こっちの、アップリケがたくさん入っているチュニックをだなぁ」

「ほわっちゃ!?」

 可愛い、幼い、恥ずかしい、スモック(幼児服)にしか見えないチュニック。 腕や首元がギャザーになっていて、絵本の空を思わせる水色の生地にはイチゴ。 先ほどメグルに対して好きだといったものがアップリケとして縫い付けられて、見ているだけでも顔が熱くなる。 さらにチューリップが咲いた女児パンツが、ナツメの羞恥心をジュクジュクと焼いた。
 一般的にこのような服はまだ口もきけない幼子くらいしか着ているところを見たことがないのに、でもしかし、着ることが義務であるかのようにナツメにぴったり。 ナツメはたらりと汗をかいた。

「ま、まさか・・・・・・ この服を、俺が?」

「ああ、幼児になりきってもらいたいんだよ。 ベビーシッターなら、それも当然の務めだろ?」

「・・・・・・」

 確かに子供の目線に合わせ、口調も幼いものにすることはベビーシッターとしては大事なことだが・・・・・・ ナツメはチトセの顔を二度見して、また視線をじっと女児服を見つめていた。 この服を着た自分が砂場で遊んだり、ブランコに乗ったり、お人形遊びに興じたり、色々と想像してしまって、そして笑った。

「あ、あはははは・・・・・・」

「?」

 ナツメは無理やりに口角筋を動かして、営業スマイルで声を上げた。

「いやぁ、冗談きついですよ、チトセさん」

「あん? 冗談って?」

「だってこれ、どう見たって女の子のでしょう・・・・・・ それも、小さな女の子がするやつ。 また俺をからかって、人が悪いんだからアッハッハッハ」

 バシバシと、チトセの背中を叩く。 そうすることで今までのアンニュイな雰囲気が晴れ、最初に彼女に出会った時と同じく、また快活な笑顔を浮かべてくれるものだと信じていたのだったが、

「・・・・・・」

「ハッハッハッハ」

「・・・・・・」

「ハッハッハッハ」

「・・・・・・」

「ハッハッハ・・・・・・ なんで黙っているんですか?」

 次第に笑うのも疲れて、再び真顔のチトセと向き合う。
 しかし彼女はもうすでにナツメの髪をいじりはじめ、あどけない童顔に似合った可愛らしい髪型へと変えていく。

「本気だからだよ。 ナツメには、どこに出しても恥ずかしくない立派なメ―― 女の子になってもらう」

「でも、これは女児服で。俺は男。 どうやったってこのあふれ出るダンディズムが――」

「わけわからないこというよな。 まあ、それも追々じっくり教育してやるよ。 とにかくまずはこのヒヨコの髪飾りをつけてだな」

「ちょっと待って、話を聞いてよ。チトセさん、チトセさんってば」

 ―― と、猫を持ち上げるみたいにひょいとナツメは首根っこを取られて、引きずられ、半ば無理やりに施される。
 チトセの爽やかな匂いとふくよかな温かみは男として嬉しいものではあったが、鏡に映る自分がどんどん女の子らしくされていく光景に、いつしか心を奪われるのだった。





(うわああああああん、こ、こんな格好。 カノジョには絶対見せられないよ!)

 淡い水色のスモックを、違和感なく、幼稚に着こなしているナツメ。
 いつかは自分も可愛い子供を持ちたい、そんな当たり前の夢と希望が今、別の形で踏みにじられる。
 全身がこそばゆく、まだおトイレにさら満足にできない幼子と同じ恰好、同じ可愛らしい髪飾りを身に着け、しかも先ほどはなかった『なつめ』という名札ワッペンまであつらえられている。 自分の手足が操り人形のもののように思え、二の腕や首回りの締め付けられて少しきつくて息苦しい。 縫い付けられたイチゴのアップリケは、見ると着るとは大違いで、頭の中さえお花畑にされてしまったような気さえした。
 手首には黄色いシュシュ、子供であれば喜んで身に着けたであろうが、今は手かせよりも重い何かだと思った。
 ナツメが密かに自慢しているゆるふわの髪は、ヒヨコの髪飾りをつけたことで、印象がぐるりと反転する。 カッコイイがカワイイに、ナツメという男子が、なつめという女の子にすり替わった

「チトセさんの馬鹿! オタンコナス! おっぱいお化け! チトセなんか、あれだ、ほら、カレーの具材になっちゃえばいいんだ!」

 そんなナツメは元より喧嘩慣れしておらず、可愛らしい悪態をついて、チトセのお腹をポカポカすることでしか怒りを向けられない。 もちろん、痛みなど全くなく、強めのマッサージ程度にしかならなかった。

「おいおい、パニックになりすぎて語彙力が女の子にそれになっているぞ。 まあ、そっちの方が似合っているけどな」

 チトセは、自信の作品に満足しているかのように、ナツメの頭を三度軽く叩く。 男が女を愛でるように、すっかり立場が変わってしまったことをそれで思い知った。

「ううううう、なんなんだよ、これぇ〜。 これじゃあまるで、俺、俺――」

 ―― 小さな女の子みたい、といいかけたところで言葉を飲み込んだ。
 自分でそれを認めてしまうのがイヤで、羞恥心のために赤らんだ頬は、乙女の恥じらいに良く似ている。
 ナツメは悔しげに、背の高いチトセを見上げる。

「あんま気にするなよ。 喫茶店のユニフォームと一緒、大丈夫、全然普通だって」

「普通だからイヤなんですよ。 そりゃあ、今でも女の子に間違えられることもあるし、宴会で女装もしたこともありますけど、でもこれはなんか違うっていうか、恥ずかしいです! 色々と!」

 むすっとした顔でその場に腰を下ろす。 実に男らしい胡坐のかきかただった。 チューリップが描かれた女児用パンツが丸見えになっていたが、まるで気にしない。

「まあまあ、落ち着けって、せっかくここまで準備したんだし・・・・・・ なにか飲むか?」

「ウォッカ・マティーニで」

「あるわけないだろ、カクテルなんて。 っていうか飲めないクセに、気取ってんじゃないの、ほら、ミルクだ」

「・・・・・・ いただいます。 ごくん、おかわり!」

 ヤケになって、ナツメはミルクを一気に飲み干す。 ゲップ、ようなものを出して少々オヤジくさいところも見せた。
 流石にそのやさぐれっぷりに、チトセは表情をひきつけらせたが、静かにナツメを説得しはじめた。

「なんだよ、ちょっとくらい恥ずかしい目にあったからってだらしねぇな。 それじゃあ仕事を放棄するつもりか? せっかくアタシたちが良かれと思って紹介したのにさ」

「だけど女装は―― ううん、小さな女の子恰好をするなんて聞いてない」

「それについてはさっきも謝っただろ。 メグルはああ見てなんというか、可愛いのが好きなんだよ。 わかってやってくれよ」

 チトセはナツメの後ろ、同じように座り込み、彼と背中を合わせる。 温かい感触が伝わって、拗ねて縮こまっているナツメを慰めた。

「だからって前もって言ってくれれば、俺、自分でちゃんと用意しましたよ。 どうせ、メグルさんのときと一緒で、俺を驚かせようって魂胆だったんでしょ?」

「・・・・・・ まあ、それも一理あるけど、いたたたた・・・・・・ つねるつねるな、悪かったよ」

 ナツメは器用にチトセの横腹をつねった。 それでチャラにするつもりではあったが、心が重い。 それ以上に、身体も重く感じる。 日頃の頑張りがたたっているのかもしれない。

「じゃあ、やめるか? 別に構わないぜ、無理いっているのはわかっているし」

「・・・・・・」

 ナツメは迷った。 恥ずかしいけれど、お金は欲しかった。
 幼い頃から夢見たエンゲージリングを買い、互いの名前をそこに刻み、教会でそれを交換する。
 一日でもはやく、それを実現したい。
 しかし、なぜか、身体が先ほどから鉛のように重くなっていく。

「はあ、ナツメさん。 悪いんだけど、少し考えさせてもらってもいい? 仕事を始める前からもう色々ありすぎて、どうも疲れてきたみたいです。 少し休めば、きっと良くなりますから」

 そういうとチトセは立ち上がり、快く頷いた。

「わかった。 じゃあ、メグルにも話してくるから、ここでちょっと休んでてくれ」

「・・・・・・ ありがとう」

「いいってことよ、じゃ、楽にしててくれ」

 チトセは去っていく。
 扉は締められた。
 はぁ〜っと、ナツメは長く思い溜息をもらす。
 けだるい空気に覆われ、「なんだかなぁ」と、独り言。
 視られていないことをいいことに、そのままゴロリと大の字になって倒れた。
 服が汚れてしまうとも思ったが、そもそもこの幼児服は子供との戯れで汚れてもいいように着ているのだから、逆に開き直っていた。
 今までずっと真面目に、朗らかに、頑張ってきたのに、急に冷や水を浴びせられてやる気が落ち込んでしまっているのだった。

(やばい、なんか、眠たくなってきた・・・・・・)

 トロンと、ナツメの視界がぼやけていく。
 なんとか睡魔を追い払おうとするが、腕が動かない。 足も、痺れている。 気力を振り絞って瞼が閉じるのを防いでいたが、
 そのときメグルの声が聞こえた気がした

「疲れちゃったら、いつでもお昼寝してくれていいのよ・・・・・・ だって、あなたはもう、ママの子なんだから」

 幻のメグルの言葉に甘えて、ナツメは意識を手放すと同時に、さらに甘々な夢の中にに堕ちていった。
 




 本当に訊いていなかったこと。
 それは赤ん坊のお世話をするベビーシッター雇うのではなく、ベビーシッターにお世話される赤ん坊を探していたということ。
 ナツメは、それに選ばれたのだった。


 気づかぬうちに、ナツメが仕事をはじめてから数日後――
 強い催眠効果のある薬と、それから“赤ちゃんとしての自分”に、ナツメは溺れていた。

「あっ、おぅぅ、あ、んふぅ・・・・・・」

 クリーム色の壁をしたその部屋の中は、おもちゃ箱のように、赤ちゃんの大好きなものばかり。 鈴の音が鳴る鞠に、色の付いた積み木、クマやウサギのぬいぐるみの大家族。べビーインテリアもより女の子らしいものが選ばれている。 揺れ木馬も楽しげに動いていたが、そこに住む赤ん坊が使うにはまだまだ早すぎるものだった。

「んあっ、あぁぁっ、お゛ぁ・・・・・・っ!?」

 赤ちゃんは、部屋の中央に鎮座されたベビーベッドの上、そこから落ちないよう安全のため、しっかりと四肢を繋がれていた。
 時にすすり泣くような声が聞こえ、時に悦びを感じた喘ぎ声をこぼし、大きな赤ちゃんこと―― ナツメは、ゆるやかな時間の中に閉じ込められていた。

「うぇ、ぇ・・・・・・んちゅゅう・・・・・・ えは、えぅううう・・・・・・」

 長い時間エッチなことが大好きな赤ん坊として可愛がられ続けた結果、初日の威勢はすっかりなりを潜めていた。
 ナツメは淫魔に憑りつかれた瞳で、口にはおしゃぶりがつめられている。 もはや似合う似合わない以前に、表情の一部となってハート柄のよだれかけの上にダラダラと唾液を零していた。 また、頭にはストライプ調のリボンで髪を小さく結わえているので、あどけない容姿がさらに妖精じみた可憐さに満ちていた。
 そして、服装は黄色いヒヨコ柄のロンパース。 可愛いレッグウォーマーも同じ色の同じ柄で、ナツメの隣にある乳飲み人形も同じ格好をしていた。

「ただいまぁ〜、ナツメちゃん。 いいこでねんねしてまちたかぁ?」

 甘ったるい声で話しかけきたメグルは、慈母のような表情を浮かべて愛娘の頭を撫でる。
 すると、ぶるるっ、びくんびくんっと、ナツメの下半身がしなやかに弾んだ。

「あれ、ナツメちゃん? ひょっとして今、オモラシしちゃったのかなぁ?」

 ナツメは答えない。 なぜなら赤ちゃんだから。
 頬を真っ赤に紅潮させるだけで、切なそうに眉を垂れ下げていた。

「そっかぁ、おちっこ、でちゃったのねぇ。 でも、ちゃあんとママが見ているところで、お尻をプルプル〜ってして、『おちっこしましたぁ』って教えてくれたんだ えらいえらい、なぁんて可愛い女の子なんでしょう、ナツメちゃん」

 さすさすと、今度はナツメの内腿をさするメグル。
 ナツメは、身体中の毛を剃られていて、肌は本当の赤ん坊のようにスベスベで、モチモチとし、とても感じやすくなっている。
 再び、ぶるるんぶるっと、白いおしっこまでオモラシすると、メグルは妖艶に目を細めながらロンパースのボタンを外していく。

「うふふ、本当にナツメちゃんはオムツがだいしゅきなのねぇ。 何回も何回もオモラシしちゃうから、ママもチトセもお洗濯するのが大変」

「う、うーっ、う、うーっ」

「あれ、ママを気遣ってくれるの? ・・・・・・ ありがとう、でも平気よ。 だって、ナツメちゃんが気持ちよーくなってくれた証拠なんだもの。 もっと遠慮せずに汚してくれていいのよ。 我慢するのなんて身体に毒。 したくなったら、すぐにすること、いい? ママとの約束よ、ふふ」

 我慢しても無駄だということ、そしてベビーベッドに繋がれている限りは、絶対にナツメが自分の意志でトイレにいけることはないこと。
 この数日でそれを何度も教育し、そしてオムツが濡れるたびにそれを見せつけ、教え聞かせ甘やかしている。 その結果、実に気持ちよさそうにオムツに向かってオモラシするナツメの性癖が開花し、ゆっくりと理性を溶かしていった。
 いつものごとくメグルはナツメのオムツを脱がせると、ペニスが露出されるとともに湯気が立ち、小水と精液が入り混じったひどい匂いが漂う。 メグルはそのことをまた幼育日誌なるものに書き加え、鼻をつまんでオムツを洗濯かごの中に入れた。
 彼女の計算によると、ナツメという若人は、完全に堕ちてはいないものの、排泄と肛虐の快感に身体は逆らえなくなっているはずだった。

「よしよし、いっぱい『しーしー』『どぴゅどぴゅ』しちゃったね。 これでまた、ナツメちゃんはりっぱな女の子に近づいたわね」

 ぱちぱちと小さく拍手する。 それをぼんやりと見つめているナツメは、いまだ甘い夢を見ているかのようにとろけていた。

「さあ、おしももフキフキしちゃうよ。 ここはね、ばい菌さんが入ったら大変なんだから。 特に、ナツメちゃんは女の子なんだから清潔にしてないと・・・・・・」

「やぅっ!? う! んむっ! うー! ぁ、んうう」

 メグルはただ拭いているだけなのに、小さなペニスに触れるたびに、女の子のような嬌声を上げて悦んでいる。

「こら、お掃除しているだけなのにはしたない。 おちんちんで遊ぶのは一日一回10分だけって約束でしょう? そんなに嬉しそうな声だしても、触ってあげないからね」

「んむぅうぅぅぅううっぅうん」

 どこか悲しげな声を立てて落ち着くナツメ。 しかしそのすぐ後、ナツメのお腹がぎゅるると鳴った。

「うーん、もしかしてお尻の穴? お尻の中の物だしたいの?」

「んー、んー、んー!」

 ナツメは激しく首を縦に振り、すでにその目は霞んでマゾの炎に焼かれて赤面している。

「ふふ、いいわよ出して。 でも、あんまり力を入れすぎたら、気を付けてねナツメちゃん。 お尻の穴、壊れちゃうかもしれないからね」

 メグルがナツメの足の拘束を外すと、彼は自分の意志で両足をM字に持ち上げ、力を入れやすい態勢をつくった。 おへその下、前立腺の裏側、直腸を官能的に刺激しながら外へ出ようとしているのは、大人向けのおもちゃだった。

「う゛っ!? う゛っ!? ―― ん゛む゛ぅぅぅうううぅぅぅうううんっ!?」

 肛門が悲鳴を上げ、直腸を捲り上げられながら、排泄物ではない異物がひりだされる。 ガラガラのような形をした太めの張り型。 昨夜の晩からずっと直腸の奥にそのおもちゃを咥えこんでいて、ナツメはすっかりナカの形を変えられてしまった。 何もかもが気持ち良くなれるように、指を入れられただけでも感じられるくらいに、調教は最終段階にまで進んでいる。 
 そして三日前にはまだ青い蕾だったそこは、今では何かをくわえたくてたまらなさそうに伸縮を繰り返している。
 息を荒げるナツメは、長く、快感の波にさらわれているのだった。

「すごいわ、ナツメちゃん。 すごいすごい」

 メグルは今にも飛び上がらん勢いで、ナツメを褒めた。

「ナツメちゃん、今、イッちゃったわよね? 玩具をひり出して、気持ちよくなちゃったよね? でも、白いオモラシしなかった」

 ナツメの身体を起こし、彼の目に、横たわるペニスを見せつけながら、決定的な事実を言葉にした。

「とうとうメスイキを覚えたのね。 ママ、嬉しいわ。 こんなに嬉しいことはない。 だって、これならいつナツメちゃんがお嫁さんに行っても、旦那さんを満足させることができんだから」

 ペタンと、ナツメのほっぺたにスタンプ。
 メグルが押したのは、笑顔のウサギさんスタンプ―― 『たいへんよくできました』のメッセージも入っている。
 ピンク色のインクで描かれたそれは、出してすっきりしていたナツメの顔を、愛されるべき幼稚キャラクターに変えてしまった。

「〜〜〜〜っ!?」

 身体を変えられ、後ろの処女を失い、なおかつ男の子失格の烙印を押された。 さらにナツメの尊厳すら奪いかねないメグルに、為す術もなかった。

「ふふ、それじゃあ新しいオムチュ、履かせてあげるわね。 今日はとってもお利口さんにしてくれているから、特別にカルガモ親子のラブリーオムチュを履かせてあげる。 ほら、わたしたちにそっくり。 この大きなカルガモさんがママで、このちっちゃくて待って待って〜ってしているのが、ナツメちゃんだよ」

 メグルは絵本の読み聞かせるかのように、オムツの中に描かれた絵を、自分とナツメになぞらえ、それを履かせた。
 ナツメは新しいオムツを変えられたときの冷たさ、生地の滑らかさにビンビクンしてしまい、洗剤の爽やかな匂いに懐かしさを感じつつ 丁寧に丁寧にペニスを包まれていく喜びに、心が破裂してしまいそうだった。
 ナツメのオムツはややきつめに止められているので、動くたびにモコモコ感やフワフワ感が直に伝わってくる。 お漏らしを防ぐためのオムツではなく、心置きなくお漏らしをするためのオムツ―― この三日間は、そのようにして、逆オムツトレーニングが実施されていたのだった。

(ふわぁああ、ぽかぽかするぅ・・・・・・ おれ、いま、なにしているんだろう・・・・・・)

 すべてをママに委ねているときのナツメは、外の世界のことなど忘れ、なにもせずともママが守ってくれるという安心感、ママがなんでもしてくれるというお姫様感を味わいながら、精神を幼くさせていった。
 お腹がすいたら、「おんぎゃあおんぎゃあ」して、口に含まされたおしゃぶりを「ちゅぱちゅぱ」して、「ねんね」したいときには子守唄も歌ってくれた。
 ナツメはまだこれが現実のモノとは思えず、気持ちのいい感覚をいつまでもひきずっている。虚ろな表情で頬を赤らめ、再び湧き上がってくる倒錯的な興奮に溺れていた。
 ―― その矢先、呆れ気味のチトセが視界の隅に現れる。

「おーい、メグル? もう約束の期間が過ぎているぞ」

「あら、そうだったの? うーん・・・・・・ それじゃあ、仕方がないわねぇ」

 ちょうどナツメに授乳を行っていたメグルは、少し名残惜しそうに胸をしまい、ゆっくりと、彼の拘束を解いていく。

「ふぁ・・・・・・」

 大きな赤ちゃんは不意に自分の大好きだったものが離れていってしまったことを、不安がり、唇から糸を引きながら怪訝な表情を浮かべる。
 イヤイヤと首を振るナツメを他所にして、よだれかけを没収し、ロンパースを脱がせ、レッグウォーマーもしゅしゅっと剥ぎ取られる。

「あっ、あっ、ううぅ、う〜・・・・・・ そ、それは、ぼく、の・・・・・・」

 ナツメは涙目になって、脱がされたモノを奪い返そうとするのだが、手が届かない。 いつの間にか起き上がり方を忘れてしまったようで、ごろりとベビーベッドの上でジタバタする。

「ダ〜メ、赤ちゃんはもうおしまい。 ほら、ちゃんと立ってください。 シャキっとしなくちゃ、男の子でしょう、ナツメさん」

「あ、ああああ」

 ナツメは無理やり元の服に着替えさせられる。
 着なれていたはずの男の子の服はまるではじめて着たように肌馴染が悪く、重く感じるようになっていた。 それにウサギさんもいなければ、チューリップもイチゴもない服に、ナツメは寂しさを感じてしまう。
 それでもチトセとメグルが手取り足取り手伝い身に着けさせ、時間が急速に早送りされているかのように、彼の心もまた雛鳥から雄の成鳥に戻っていく。
 ―― ただひとつ、新しいオムツだけは死守して、ナツメは久しぶりに男の子に戻った。 

「なにからなにまでウソついちゃってごめんねぇ。 でも、楽しかったわよぉ。ナツメちゃん・・・・・・ ううん、ナツメさん」

「え、ええっと、その」

 ナツメはふと、我に返ったかのように赤らんで、頭から湯気を立ち上らせている。 今まで自分がどんな恥ずかしい日々を送っていて、そして途中からむしろ進んでその幼児生活に没頭していたことも自覚している。 騙されたことを怒る気にもなれず、ただどうすればいいのかわからず顔を覆い隠していた。

「気にすることはないですよ、ナツメさん。 誰の心にだって、赤ちゃんになりたいって願望はあるんですから」

 ナツメは、それはズルイ言い方だと心から思ったが、彼女を恨むことはできない。

「くぅううん、う、恨みますよメグルさん」

「うふふ」

 ママのおっぱいが大好きでなんどもおねだりをし、心細くなって泣きじゃくったり、ガラガラやお歌を歌ってもらって喜んだりもした。
 メグルが迫ってくると、未だに赤ちゃんにされたときの抱擁感を思いだし、頭の中がお絵かきだらけのお花畑になる。 ナツメの視線は自然と彼女の胸―― ママのおっぱいに注目するようになっていて、それに自分自身気がつくと、慌てて首を横に振った。

「はい、これは、お仕事の報酬です」

「え?」

 チトセからメグルへ、そしてメグルからナツメへ。
 手渡されたのは、あの、エンゲージリングの入ったプレゼント箱だった。

「メグルが店の親父に事情を話したらさちょっと値引きしてくれたんだよ。 だから、これは正当なアンタへの報酬だ」

「ええ、でも、これは・・・・・・」

「ふふっ、グズグズしないの。 ほら、早くこれもって、花屋のカノジョの所へ行ってください」

 もうすぐ花屋の閉店時間だ。
 タイミング的にはちょうどよい。
 以前のナツメならば言われるまでもなく、一目散にカノジョの元へ駆けだしていたはずなのだが、

「・・・・・・」

 迷子のような顔をして、ナツメは困っていた。 赤ん坊のときの癖で指をしゃぶりながら、どうしようかと不安がっている。 自分がいるべきところが本当にそこなのだろうかと、今まで疑問にすら思わなかったことを、考えている・・・・・・

「ナツメ?」

「ナツメ、さん?」

「あ、ああ、うん。 そうですね、そうですよ、俺、行かないと・・・・・・ 行かなくっちゃ・・・・・・ カノジョが、待ってる・・・・・・」

 メグルたちに背を押され、ようやく、歩き出す。
 甘やかされた赤ちゃん部屋を、自らの足でふらふらと巣立っていくナツメ。 若い男の子らしいその服の下には、見るだけでも恥ずかしいオムツを履いている。 今の彼は、それを脱ぐことなんてできっこない。
 そしてもう一つ。
 彼が、赤ちゃんであることを証明するものが、そのあどけない容姿に残っているのだが・・・・・・ ナツメは気づいていなかった。





「なにしにきたのよ?」

「・・・・・・え?」

「一週間も行方をくらませておいて、今更なに? いったい、どこで遊んでいたのよ」

「い、一週間だって!? ・・・・・・ そうか、もう、そんなに」

 約束は3〜5日だったはずだけど、正確に日数を決めたわけではなかった。
 花屋の裏に、カノジョを呼び出したナツメではあったが、そこで待ち受けていたのは恋人たちの甘々な空間ではなく、修羅場だった。

「は、はははは、それその、色々と心配かけてみたいだね・・・・・・」

 ナツメはいつものように笑い、

「悪かった。 本当に悪かった、この通り、もう二度とこんなことしないから」

 そして、真摯に頭を下げた。

「でも、聞いてほしいことがあるんだ。俺は別に遊んでいたわけじゃなくて、ちゃんと仕事をしていたんだよ。 君の、ううん、俺たちのために」
 
 小さなナツメは大きく両手を広げて、花屋の恋人を迎え入れるポーズをとった。 その手にはちゃんと指輪の入ったプレゼントがある。 花屋の恋人が「それなに?」と聞いてくれるのを期待して、待っていた。
 ・・・・・・。
 しかし、ナツメがどんなに一生懸命に訴えても、爽やかな笑顔で愛を謳っても、カノジョは一向に機嫌をよくせず、それどころかますます顔色を曇らせていく。

「なにが仕事よ、顔に変なスタンプつけてさ、ナツメ、私のこと馬鹿にしてるの?」

「え?」

 ふとナツメは花屋の窓辺に映った自分の顔を見た。
 そこには、赤ちゃんの時につけられたスタンプ―― 『よくできました』というメッセージ入りのウサギが、くっきりと頬に残っている。

「うわぁあああ、な、なんでこれが、や、ちがう! これ、ちがうからぁ!」

 ママにつけてもらった大切なご褒美スタンプを、今の今まで気づかず歩いていた自分が恥ずかしい。 なにより、最も見られたくなかった相手に指摘され、ナツメは急遽慌てふためき、彼女に詰め寄った。

「聞いてくれ、俺の話。 全部、全部誤解だから――」

「やめて、近寄らないで。 わたし、なにも聞きたくないから!」

 ナツメは愛しい人の名を呼んだ。
 道化のような笑みを張りつけて、恋人不審に陥っているカノジョのことを勇気づけようとしたのだったが、

「なんでいつもそうなの?」

「え?」

「いっつもヘラヘラして、怒っているわたしが、そんなに楽しいの?」

「そうじゃないよ、俺はただ・・・・・・」

 悲しい顔を見たくなかったら、少しでも笑ってほしかったから。
 だからナツメは、笑う。
 けれど、その想いは伝わらない。

「そりゃあ、わたしはナツメみたいに器用じゃないよ、友達も少ないし、顔だって・・・・・・ でもだからって、こんな時にまで笑わなくたっていいじゃない! そういうところ、大っ嫌い!」

「か、考えすぎだよ、君はいつも被害妄想がすぎるっていうか―― ああ、もう、じゃあこれだ、これを見て! これを見てくれたらきっと、きっと君も俺の気持ちに気づいてくれると思うから!」

 ナツメは思った。
 エンゲージリングを見せればすべてうまくいく。
 なぜなら、幼い頃のあの約束は、自分たちにとっての生きがいであり、絆だから。 たとえどんなに心が離れそうになったとしても、あの頃の純粋な気持ちを思い出せばきっと、恋人も自信を取り戻してくれるだろうと、信じていた。 しかし――
 
 ―― ぷちん
 
 何かが切れる音。
 同時に、ナツメの下半身が急に風通しが良くなる。

「な、なによ・・・・・・ それ・・・・・・ お、おむ、つ?」

「あぁぁあぁっぁぁ!」

 お互いがお互いの顔を見合い、そしてまた二人の視線がナツメの下半身へと向かう。
 スエットのベルトが切れ、そこから現れたのはピンク色のオムツ。 モコモコに包まれたお尻。 恥ずかしい恥ずかしいカルガモ親子が明るみに出て、恋人は言葉を失っていた。

「あ・・・・・・あ、あ・・・・・・」

 ナツメは何かを言わないといけないと思ったが、なかなか言葉にならない。 また赤ん坊に戻ってしまったかのようにイヤイヤと首を振る。
 すると、青ざめた恋人からの声が、先に彼の心の芯を穿った。

「気持ち、わるい」

 怒りが、悲しみが、そして愛情が・・・・・・ 冷たい嫌悪へと姿を変える。

「きもちわるいきもちわるいきもちわるい。 なによそれなんなのそれ、どうしてオムツなんて履いているの? 私が見えないところで、ナツメ、いったいなにをやっていたの?」

「ああ、あ、ああああ」

 力を無くし、おぼつかない足取りで、けれどもナツメは恋人を目指して歩く。
 口をパクパクとさせて「待って」「行かないで」「話を聞いて」「お願い」「俺を見捨てないで」、弱々しい瞳からはそんな切実な願いが感じられた。

「いや、近寄らないで!」

「―― っ!?」

 弱々しく伸ばしたナツメの手を、恋人は払いのける。

「二度と私に話しかけないで。 変態・・・・・・」

 それだけを言い残して、カノジョは去っていった。
 それが、ナツメと恋人との最後の別れとなる。

「うっ・・・・・・ ぅ、グスッ、うあぁああああぁあああっ!」

 輝かしい未来が待っていたナツメの人生は、そこで幕を閉じたのだ。
 ナツメは我を忘れてその場に泣き崩れた。 心の中の大事な何かがぽっきりと折れてしまい、オムツが丸見えにしたままただ赤子のように喚いていた。 哀しくて、寂しくて、一人ぼっちでいる怖さを、今はじめて知ったみたいに震えていた。

「うわぁあぁぁぁああぁあ、あぁ、あああぁぁ、ひどいよ、あ、あんまりだぁあああああ!」

 そんなナツメを見かねて、ゆっくりと近づいてくる二つの影。
 彼女は泣きじゃくる彼を後ろから抱きしめて、悪魔みたいに優しい声をかける。

「可哀そうな、ナツメちゃん」

 それはママの声だった。

「ひっく・・・・・・ ぐすっ、ぅうううううう」

「ママ、全部見ていたわよ。 ナツメちゃんは全然悪くない。 ひどいのは花屋の女の子の方。 ナツメちゃんはカノジョのために恥ずかしい思いを我慢して、頑張ったのに。 ウサギさんのスタンプも、カルガモさんのオムツも、こんなに可愛らしく似合っているのに、変態なんて、ありえないわよ」

 メグルママの声は傷ついたナツメの心を癒してくれる。 冷たくなった肌を温め、寂しい身体を抱きしめて、ほっぺにご褒美のキスしてくれる。 ナツメが頑張ったから、ママは今ここにいるのだと、聞かされた。

「さぁ、ナツメちゃん。 もう一度、ママのところにいらっしゃい。 これからはママが、あなたのことを見ていてあげる。 結婚相手も、ママがナツメちゃんにぴったりの人を紹介してあげる。 ぜんぶ、任せてくれていいのよ」

「だ、だめだよぉ、そんなのぉ・・・・・・ そんなことされたらぁ・・・・・・ おれ、もう・・・・・・ もどれなくなっちゃうぅぅ」

「おれ、なんて言っちゃだめよ。 ナツメちゃんは女の子なんだから、あ、た、し、ね?」

「あ、あたし・・・・・・ あた、し・・・・・・ そんな・・・・・・」

 最後の理性が振り絞って警戒を訴えるが、そんなものは何の役にも立たない。

「ほら、こっち側のほっぺにも、スタンプしてあげる」

「あう」

 右と左、左右のほっぺの『たいへんよくできました』のウサギさんスタンプがつく。

「帰ったら、オムツも替えてあげるからね。 今度は、ブタさんおオムツだよ?」

 もう一人では、ナツメはおトイレにも行けない。

「ママのおっぱい、い〜っぱい飲ませてあげるからね」

 もう、ママのミルクなしでは生きていけない

「た〜くさん、可愛がってあげる。 二度と、男の子なんて戻りたくないって思うくらいにね」

 ・・・・・・ そこには、花屋の恋人がくれなかったものがたくさんある。
 自分へのご褒美と、おしものお世話と、おっぱい。

「おいで、ナツメちゃん。 おいで、ママの可愛いベビーちゃん」

「ああぁ、あああ、だめなのに、こんなのぜったい、間違っているのに・・・・・・」

 力のない手から、エンゲージリングが零れ落ちる。
 誰もそれを拾おうとはしない。
 ころころと転がる先を見つめているうちに、ナツメの心は闇に堕ちた・・・・・・

「ママの言うこと、ちゃあんと聞いてくれるわよね?」

「・・・・・・」

 メグルに問われ、ナツメは黙ってうなずく。 瞳はもう、暗い洞のように沈んでいて、ぎゅっとメグルの手を握りしめていた。

「ふふふ、いい子ね、ナツメちゃん・・・・・・ あなたはきっと、いい、奴隷嫁になれるわ」

 ナツメは人さらいにおんぶされながら、ひと時の安らぎのためにすべてを捧げてしまった。





 数週間後、とある料理店にて。

「いっただきまーす」

「いただきます・・・・・・ って、チトセ、貴方またカレーライスを食べるの?」

「あん? いいじゃないか別に、好きなものは好きなんだしさ」

「そりゃそうだけどさ、せっかくアレが売れたんだから、もっと贅沢なのを食べなさいよ」

「アタシは質より量なんだよ」

「燃費悪いわね・・・・・・ 今回全然働いてないのに・・・・・・」

「ぐぅ・・・・・・ でも最後、ちゃんとアイツのベルトを切って落としたぞ」

「まあ、確かにあれは見事なものだったけどね」

「メグルも性格悪いよな。 愛し合う二人の仲を引き裂くだけじゃなくて、あんなショッキングなことするなんてさ」

「チトセは力技に頼りすぎなのよ。 いくら器量が良くても、オプションでもないのにキズモノにしたら、相場の価格からガクって下がっちゃうのよ」

「だからってさぁ、結構な賭けだったんじゃないのか、今回・・・・・・ もし、花屋の女の子の方がさ、逃げ出さずにあのまま変態的なプロポーズを万が一引き受けていたら、どうするつもりなんだよ?」

「そのときは二人ともさらうだけじゃない」

「そんな面倒臭い展開。 アタシはごめんだ。 ・・・・・・ すいませーん、カレーライスおかわり」

「・・・・・・ はあ。 あんまり目立ちたくないのに」

「ああそうそう、ところで、あのエンゲージリングはどうしたんだ? 」

「え? ああ、あれはもったいなかったから再利用させてもらったわ」

「?」

「ふふふっ。 ママはね、ちゃあんと赤ちゃんとの約束は、守ってあげるのよ」





 同時刻、とある教会にて。

「ふぁぁぁぁぁぁぁん」

 チャペルの音が、高らかに鳴り響いていた。
 バージンロードを歩くナツメは、女性であればだれでも一度は憧れるであろうウェディングドレスに身を包み、しかしそれは開口部分が大きくスケスケの浸透度になっているため、裸同然の、裸よりも煽情的な衣装だった。
 なにより、花嫁にあるまじきナツメの男の子の部分が完全に露出されていて、しかもカリ首には銀のリング―― かつて、エンゲージリングと呼ばれていたそれを溶かして作り上げた、彼だけの拘束具があった。

「ほら、花婿がお待ちだぞ。 何をグズグズしているんだ」

「は、はひぃ、も、もうしわけございません」

 ペニスにはめられたリングから伸びる糸をぐいぐいと引っ張る、ナツメを買ったご主人様。
 彼は今日、この日、かつての願いどおりに結婚をすることになった。
 それもメグルによって女の子として幼育・調教された彼は、可愛らしい花婿ではなく、エッチで可愛い従順な奴隷嫁として添い遂げる。

(あ、ああ、ママ、ママ・・・・・・ ナツメね、今日、結婚、するよ・・・・・・ ママのおかげで、ナツメ、立派な女の子になれたんだぁ・・・・・・)

 歪んだ幸福感に浸る花嫁奴隷。
 しかし、その相手というのが、男でも女でもなく、ましてや人間ではないということに気づくのは、もう間もなくのことだった。