天使達の悪巧み 第一章 和葉のお願い

きっかけは些細な事だった。
『母親が昇進した。』
文章で表せばたった七文字で書けるほど単純な事件。
いや事件というには大袈裟すぎる。それは本当に些末なごくありふれた日常の茶飯事である筈だった。
だが風祭莉緒にとってその茶飯事は、人生を揺るがす大事件となってしまったのであった。
『母親が昇進して、半年間の単身赴任が決まった。』
ただそれだけの出来事の為に。

「莉緒、日曜だからっていつまで寝てるのよ」
莉緒達の母親が後ろ髪を引かれながら赴任先に向かってから三日目。まだ眠い彼をベッドから引きはがしにきたのはもちろん母親では無かった。
「まだ八時じゃないか。もうちょっと寝かせてよ」
莉緒はシーツを頭に被せながら泣き言を言う。
「ダメだよお兄ちゃん。私がいなくても規則正しい生活をするのよ、ってママが何度も言ってたでしょ」
和葉はそう言ってベッドが揺れるかの如く力強く兄の体を揺する。まるで地震でも起こったかのような振動に莉緒は仕方無くシーツから顔を覗かせた。
「ちぇっ、折角母さんがいなくなって自由な生活を謳歌できると思ったのにな」
「あはは、だめだよ。ママがいない間は私がママ代わりなんだからね」
和葉はカーテンを開きながら満足そうに笑った。その朝日に照らされた笑顔には、それを与えられたものだけが持つ責任感が溢れている。
しかしその笑顔に隠された妹の決意に莉緒はちっとも気がついていなかった。
「あれ、昨日俺パジャマに着換えないで寝たんだっけ?」 「やっぱり、ちっとも覚えていないのね・・・」
和葉は莉緒に見えないようにカーテンで顔を隠しながら少しだけ真面目な顔に戻った。

風祭(かざまつり)莉緒。本編の主人公であるところの高校三年生の男子である。
莉緒という女の子のような名前は彼が出生した時に病弱であった事に由来する。昔気質の祖父祖母が「男の子は幼少のころ女の子として育てた方が元気に育つ」という言い伝えを信じて彼にそのような名を提案したのだ。また『緒』という字には長く続くものという意味も込められており(本来は糸などという意味が強いので女の子に付けられやすい字なのだが)、彼に対する両親祖父母の愛情が溢れていた事を端的に表している。
だがそんな幼少期を乗り切り、人より小柄ではあるものの立派に青年として育った彼としてはいまやその名前はコンプレックスの一つでしか無かった。音の響きからも名前の読みとしてもほぼ100%女の子に間違われる事が多かったからだ。
加えてまだ第二次性徴を迎えていないかのような容姿と相俟って、莉緒は成人した暁には絶対に名前を変えてやるとさえ考えていたのだ。
一方の風祭和葉は彼の妹であるところの中学二年生の女子である。和葉という莉緒よりも幾分か男らしい名前は、本来は両親が莉緒に付けようと考えていたものであり、莉緒を産んでからもう子供は産めないと言われていた彼の母親が、あに図らんや四年後に生まれた彼女に喜び勇んで名付けた尊き呼び名である。
幼少の頃の不健康が祟って未だに成長の遅い兄に比べ、健康優良児として育った彼女は四歳年上の兄を肉体的にはもちろん精神的にも超えている部分があり、それこそが子供達だけを放っておいて母親が単身赴任に出掛けることが出来た原因でもある。
兎も角、現在の風祭家は子供達だけで生活しており、そのヘゲモニーは妹である和葉が握っているのだった。

「ほら、早く起きて顔洗ってご飯食べてよね」
どうやら和葉は既に朝食を済ませているようだった。生意気な妹だが料理を含む家事の腕が確かな事は莉緒も求める事実だ。まあそうで無ければ後述する理由により、二人の母親が家を空けるなんて事は考えもできなかっただろう。
「仕方ないなぁ」
急に空腹を感じた莉緒はようやくベッドから這い出る。小さなからだとはいえ高校三年生の男の子だ。人並み以上に腹が減り、和葉の作る朝食の旨さを思い出したのだ。
「そうそう、今日十時から友達が来るから」
「えっ、またかよ」
「いいじゃない別に。私の友達なんだから」
「お前の方こそ、母さんがいなくなってから好き放題だよな」
「そんなこと言うとお昼抜きにするわよ」
「あっ、いや、それは勘弁。だけど静かにしてくれよな。俺だって一応受験生なんだから」
時は四月、三年生になったばかりの莉緒だったが落第すれすれの成績の彼にとって受験勉強を始めるには遅すぎる時期でもあった。
「ふーん、偉そうにしちゃって。どうせ無駄だからさっさと諦めればいいのに」
「お前なぁ・・・・・・」
その酷い言葉にも莉緒はそれくらいしか言い返す事が出来ない。なにしろ和葉と言えば小学校から有名進学校に特待生として通っているほどの才媛なのだ。
「と、とにかく、友達が来るんだからみっともない姿見せないでよね」
「はいはい、分かったよ。出来の悪い兄は部屋にすっこんでるよ」
莉緒の友人とくれば同じく良くできた優等生の女の子に違いない。だとすれば優秀な妹の出来の悪い兄としてわざわざ姿を晒す事も無いだろう。和葉の心情も理解したつもりでそう言った莉緒だったが、帰ってきたのは意外な言葉だった。
「べ、別に、ずっと部屋にいろなんて言わないけどさ・・・・・・」
いつもにもなくしおらしいその発言に莉緒はおかしな雰囲気を感じた。
「わ、私は別に、恥ずかしい姿を見せないでって言っただけで、ずっと引きこもっていろだなんて」
益々妹の様子がおかしい事に莉緒は気がついた。そういえばいつもなら洗濯するんだからと言って有無を言わさずシーツを引っぺがしていく彼女の起こし方がいつになく優しかったではないか。
「じゃあどうすればいいんだよ。兄の莉緒ですって出て行けばいいのか」
莉緒の頭に、もしかしてその友達とやらが自分に興味、いや好意を持っているのではないかという淡い期待が浮かんだ。
だがそんな思春期男子特有の思い込みはすぐに否定された。
「やめてよ気持ち悪い」
汚いものでも見るかの様な目で兄を睨む和葉だった。
「じゃあどうしろって言うんだよ。言いたいことがあるならはっきりと言えよ」
不肖の兄と言っても十三年間も一緒に暮らしている兄妹である。和葉が何か要求を抱えているのが莉緒には手に取るように分かった。
「そんなんじゃ・・・・・・ないんだけど・・・・・・」
和葉は俯きながら少し頬を染める。たまにしか見せない女の子らしい表情に莉緒は一瞬ドキリとした。
「言えよ。俺みたいな兄ちゃんでよければ何でも聞いてやるよ」
その姿に兄として妹を守るという義務感を久方ぶりに思い出した彼はついつい調子の良い言葉を言ってしまった。
「ほんと?」
なおもいじらしく上目遣いに見上げる和葉。そうそう、妹ってこうだよな。こうでなければ兄でいる意味なんかないよな。そんな馬鹿なことを思って莉緒は自身の刑罰執行書にサインをしてしまった。
「ああ。俺に出来る事ならなんでもしてやるさ。可愛い和葉の為だもんな」
「嬉しぃっ!お兄ちゃん大好きっ!」
和葉は莉緒に抱きついた。
「おいおい」
抱きついている方が大柄だから見栄えは悪いかもしれないが悪い気はしない。ひょっとして母さんがいなくなってこいつも寂しいんだろうか。じゃあ兄としてしっかりしなくちゃな。久しぶりに妹の匂いを感じ、そんな事を考えていた莉緒だったが、それが単なる妄想に過ぎない事を彼はすぐに知る事になるのだった。

「えっとね、今日来るのは部活のチームメイトなんだけど」
「ああ、バスケ部のか」
「そっ、まこちゃん・・・・・・その子瀬能真琴ちゃんって言うんだけど、凄いんだよ。だってまだ二年なのにうちのエースなんだから」
「ふーん。そりゃ凄いな」
和葉の学校は文武両道に力を入れている、幼稚園から大学まで完備した進学校である。中学とはいえその学校でバスケ部のエースとは凄い女の子に違いない。
「で、その話と俺への頼みとどんな関係があるんだ」
「まあ焦らないでよ」
和葉は言いにくそうに続けた。
「でね、まこちゃんのお兄さんって同じ学校なんだけど高等部のバスケ部でキャプテンなんだってさ、もう既に複数の大学やプロ、果ては海外からもスカウトが来るっていう凄いお兄さんらしいんだよね」
「そりゃあ良かったな」
少しふてくされて莉緒はそう吐き捨てた。なんだかその優秀な兄と比べられてしまったような気がしたのだ。
「ごめんごめん、怒らないで」
和葉は宥めるように両手を広げて前に翳してみせた。
「んでね、まこちゃんに、和葉も兄弟っているのって聞かれた時にさ・・・・・・」
口ごもる和葉。
「聞かれた時にね・・・・・・ついつい・・・・・・」
「つい、なんだよ?」
嫌な予感を感じながらも和葉が問う。
「ついね・・・・・・その、お兄ちゃんが恥ずかしいとかじゃ・・・ないんだけど」
「ちょ、ちょっと待て・・・・・・お前まさか・・・・・・」
「そうなの、だってお兄ちゃんってお兄ちゃんに見えないんだもん・・・・・・」
「かぁっ・・・」
莉緒は額に手を当てて溜息をついた。まさかとは思ったが変なところに見栄を張る妹だ。きっと自分の事を兄だとは言えずに、弟だと言ってしまったのだろう。
「でね、まこちゃんがどうしても私の兄弟を見たいっていうから、私も後に引けなくってさ」
「でもお前、さすがに無理はないか俺がいくら小柄だと言ってもさ」
苦々しげに莉緒が呟く。
「だって、お前より下だって言うのなら小学生だろ。いくら俺でも小学生には見えないだろ」
「ううん。そんな事ないよ、それなりの格好していればお兄ちゃんなら小学生に見えるって」
「そんな事言われても嬉しくねえよ」
「ねっ、お願い。少しだけでいいから、小学生の振りをしてまこちゃんに挨拶してくれる!?」
莉緒の不機嫌さを察知したのか、和葉は両手を合わせて頭を下げて見せた。こんな姿は小学生の時ネコを拾ってきたのを両親に黙っていてくれと頼まれた時以来だ。再び莉緒のお兄ちゃん魂に小さな火が灯る。
「仕方ねぇなあ。ちょっとだけでいいんだな。恥を忍んで弟の振りをしてやるよ」
「えっ!?」
てっきり喜び勇んでまた抱きつかれるかと思った莉緒だったが、和葉はきょとんとした目で彼を見つめるだけだった。
「どうした、嬉しくないのか。お前のつまらないプライドにつきあってやろうって言ってるんだぞ」
「え、えっと・・・・・・」
意を決して恥をかきすてる発言をした兄に対し、和葉は少し困ったような顔つきでこう言った。
「お、弟っていうか・・・・・・その・・・・・・」
莉緒は背中になにやら虫でも這いずっているかのような悪寒を感じた。
「い、妹がいるって答えちゃったの」
ぺろりと舌を出して言うその妹の仕草に莉緒は殺意さえ感じた。

「ほら、大人しく着替えなさいって。男の子でしょ」
「だ、だってさ・・・・・・これお前のお古じゃん」
床の上に並べられた一通りの衣装を眺め、莉緒は真っ赤な顔で和葉に抗議した。
「いくらなんでも、もう俺高三だぞ。その俺がこんな服着れるかよ」
「なんでもしてくれるって約束したのは、どこの優しい妹思いのお兄ちゃんだったかしら。妹の為に一肌脱ぐって言ってくれたじゃない」
「いや、まさか、そんな事になっているだなんて想像も出来ないだろ!」
「仕方ないじゃない。元はといえばお兄ちゃんがチビなのがいけないんでしょ!」
完全に主導権を握ったと確信したのか、先ほどと打って変わって和葉は強気だった。
「それにしてももうちょっとマシな服なかったのかよ。女物にしても、もうちょっとカジュアルなもんとかジーンズだとかあるだろう」
「だってお兄ちゃん小さすぎて最近の私の服じゃあ着れないでしょ。第一そんな服着てたら小学生に見えないじゃない」
「そりゃあそうかもしれないけど・・・・・・」
莉緒は改めて雑然と撒かれた洋服達を見る。裾と袖口にのフリルが可愛らしい大きなさくらんぼプリントのピンクのトレーナー。 裾にチューリップのアップリケのついた水色のミニスカート。くるぶしまである真っ白なフリルのついたハイソックス。極めつけはシルクのように柔らかそうな生地で出来たうっすらと白銀の光を放つラン型のスリーマと、厚ぼったい生地でお臍まで包み込むほどの大きさのリボン付き女児ショーツだった。
「下着まで着るのかよ」
真っ直ぐにはそれを見られず、チラリと横目で見る莉緒。それを鼻で笑うかのように和葉は言い返す。
「だって何かの拍子にスカートが捲れたらどうするのよ。小学生の女の子ってお転婆だから保護者が気を付けてあげないとね」
「誰が保護者だよ!第一お前は恥ずかしく無いのかよ、自分のお古の下着なんて」
「そう?考えもしなかったわ。でも別にどうってこと無いわよ、だって小学生低学年の時のだもん」
「低学年か・・・・・・」
莉緒の脳裏に目の前の服を着て無邪気に遊ぶ和葉の姿が思い出される。
「ほら早くしないと、まこちゃん着ちゃうでしょ。他の服は捨てちゃったんだからそれしかないの。いい加減駄々を捏ねないでよ」
「お、お前なあ、人が好意で・・・・・・」
「これ以上言わせる気なの。じゃあこれから半年間自分で食事や洗濯してよね」
「脅す気かよ」
「さあ、どうでしょうね。私はただお兄ちゃんが男として一度言ったことの責任をとって欲しいって言ってるだけなんだけど」
「ち、ちきしょうっ!着ればいいんだろ!」
そこまで言われては莉緒にはもう言い返す言葉が無かった。
「ちょっとだけ。ちょっとだけだからな、まこちゃんとか言う奴の姿を見たらすぐに部屋に戻るからな」
「ええ、いいわよ。私は可愛い妹が実際にいるって事を証明できればいいだけだから」
「ちぇっ、人ごとだと思いやがって」
毒づきながら莉緒は床に落ちているショーツを拾い上げる。
「おい、部屋から出て行けよ。着替えられないだろ」
「ちゃんと一人で着れるの?」
「馬鹿にするなっ!」
莉緒は手に持ったショーツを投げつけたが、それは和葉が締め切った扉に当たり音もなく落ちていった。

「ちくしょうっ。なんで俺がこんな目に」
莉緒は仕方無くズボンを脱ぐと、頬を赤らめながらショーツに足を通す。股ぐりにゴムの通った女児ショーツ特有の柔らかい感触が内股を刺激する。真っ白なステッチの中、和葉が汚したのであろう僅かな汚れが莉緒のうぶな心臓をドキリとさせる。
「こんな姿見せられるかよ」
短小でまだ包茎の小さなペニスは女児用のショーツを穿いても違和感は感じられなかった。それどころかお臍の下の小さなリボンとそれを包むように縫い付けられた白いレースの下腹部は小さな少女の物にしか見えない。莉緒は頭を振ってスリーマに手を伸ばす。
用意されたのは最近あまり見ない、下半分がスカート状になった下着だった。ショーツとはまた違う生地の柔らかさは男の子である莉緒にとってもの凄く新鮮だった。穿くのがいいのか被るのがいいのか和葉に聞くわけにもいかず、莉緒はスカート部分を広げて腕を通す。裏側にあるタグには140のサイズ表記と『優陵学園小学校3−2風祭和葉』と書かれている。実際に和葉が低学年の時にそれを着ていた証拠を晒され莉緒は益々死にたいほど恥ずかしくなってしまった。
だがすっぽりと被ってしまえば、それはウェスト部分には僅かな余りがあるくらいに彼の体にぴったりとフィットし、丈の長さも丁度ショーツを隠すか隠さないかの微妙なところでひらひらとスカートが揺れていた。
「うわ、肌心地すごいや・・・・・・」
女の子の下着に体を包まれた気持ちよさに少しだけ気を取られた彼だったが、そんな姿でいることの恥ずかしさを思い出しすぐに頭を振ってトレーナーを手に取る。
洗いざらしたその生地はところどころささくれだって、いかにもおふるの洋服という感じだ。なんだか自分が本当に和葉の妹にされた気分になり莉緒は憤慨したが、まだ幼い頃自分のおふるを着せられて不機嫌だった彼女の姿も同時に思い出す。
最後にスカートを穿こうとして手に取った莉緒だったが、さすがにそれには抵抗があった。子供の頃から穿き慣れている女の子には理解できない事かもしれないが、莉緒のように普通に育った男の子にとってスカートというのは憧れでもあり恥ずべき物でもある。
それは女の子という母性そのものの象徴でもあると同時に、自分が穿くことなど考えも出来ないものなのだ。大袈裟にいうのならばそれを穿くだけで自分を女とでも認めるかのような、自分が同性愛者の受けの立場だと認識するような屈辱がある。
莉緒は深呼吸をして腰を下ろすと先に靴下に足を通した。

「お兄ちゃん、まだー!?」
その時廊下から和葉の声がして莉緒はドキリとした。
「まだだよ!入ってくんなよ」
「ばーか、誰もあんたの着替えなんかみたくないよ!」
恥ずかしくて悔しかったが約束は約束だった。莉緒のように女の子として間違われる事を嫌っている男の子にとってそれは人一倍の苦痛だったが、この期に及んで嫌だと言える筈も無い。そんな事をすれば莉緒の兄としての根本的立場さえ揺るぐ事になるのだ。
目を瞑りながらスカートの輪を広げると、スリーマのスカート部分に悪戦苦闘しながらそれを穿き上げる。当たり前だがズボンと違って障害は何も無く、ゴムの入ったウェスト部分を腰骨まで引き上げてから奈緒は一体どこまで穿き上げればいいのか不安になってしまった。
生地をたっぷりと使ったフレアースカートはちっとも太股にまとわりつかず彼は本当にそれを穿いているのかさえ不安になる。
「これで・・・・・・いいのかな・・・・・・」
体を見下げてもスカート丈が正しいのか彼には不明だった。だがあまりおかしな姿で和葉の前に出て行く訳にもいかない。莉緒は仕方無く部屋の隅に置かれた姿見の前に立ってみた。
「あっ・・・・・・」
一瞬彼は絶句した。鏡の中には美少女と表現するにしてはボーイッシュすぎるものの、可愛らしい小学生程度にしか見えない少女が恥ずかしそうにこちらを向いていたのだ。
「馬鹿野郎。何考えてるんだよ」
我に返った彼はわざと不機嫌な表情を造ってみせる。だがその行動さえも、鏡の中の少女が生意気そうに大人びた不機嫌な様子になる姿を映し出すだけだった。
「うわぁ、お兄ちゃん自分に見とれちゃってるー!」
「う、うわぁぁっ!勝手に入るなよっ!」
気がつけば鏡の奥には和葉が立っていた。
「だってさ、何にも音もしないからてっきり着替え終わったのかなって。なーんだ、自分のあまりの可愛さに一目惚れしちゃった?」
「ば、ばか!そんな筈ないだろ!こんな服男が着れるかよっ!」
「まーたまた。でも思った通りよく似合うよ。とても高校生の男の子だと思えないよ」
和葉に頭からつま先までをなめ回すように見られ、莉緒は頬を真っ赤に染めた。
「でもまだ少し男の子の部分が残ってるかな。まこちゃんがくるまでにちょっとオシャレしよっか」
「そんなのいいってば!」
「まあまあ、お姉ちゃんに任せときなさいよ」
和葉が莉緒の頭を掴んだその瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
「あっ、もう来ちゃった。お兄ちゃんがぐずぐずしてるからだからねっ!・・・・・・はーい!」
和葉は慌てて部屋を出ると階段を駆け下りていく。
「ど、どうしよう・・・・・・」
心の準備も出来ていないのに一人残された莉緒は胸を締め付けられるような気持ちで廊下の外に耳を傾けた。
「あっ、いらっしゃい。待ってたんだよ」
そっと扉を開けると階下から和葉の声が聞こえる。
「ゴメン。ちょっと早かったかな、これお土産、一緒に食べようと思って」
続いてそう響いた声は運動部らしい、掠れた少女の声だった。これからその少女の前にこの格好で顔を出さなければならない。そう考えるだけで足が震える莉緒だったが、無情にも和葉の大きな声が彼の耳に響いた。
「莉緒ーっ!出てきてお姉ちゃんのお友だちにご挨拶しなさいっ!」
「ひいっ!」
まるで漫画のような悲鳴をリアルに出してしまった彼は思わずその場で漏らしてしまうかとさえ思った。
「莉緒っ!!聞こえないのっ!!」
事情を知っている筈なのに厳しい声が何度も響く。もう逃げる事も出来ない。莉緒はゆっくりと女児の姿のまま廊下に歩み出て震える声を張り上げた。
「はーいっ!いま行くよっ!」
本当に声変わりしたのか疑うような声が男声に聞こえない事を莉緒は知っていた。だが声と見た目は全く別の物だ。さきほど鏡で確認したとはいえ、すぐに男の子だとばれてしまったらどうしようか。莉緒は十三階段を逆に下るような気持ちでゆっくりと玄関に通じている階段を下りていった。

「あっ・・・あっ・・・あのっ・・・・・・」
階段をまだ二段ほどするところまで降りていった地点で莉緒はもう動けなくなった。代わりに響いたのは真琴の声だった。
「うわあっ、かわいいっ!!」
まるで男声のような口調で乾いた声を張り上げ真琴は莉緒を見上げた。
「うひゃぁっ、この子本当に和葉の妹かよ。ちっちゃくて素直そうでとっても可愛い子じゃん」
玄関に立ったまま真琴は手に持った紙袋を莉緒に向かって差しだした。
「莉緒ちゃん、初めまして。私は和葉お姉ちゃんのお友だちよ。瀬能真琴って言います。仲良くしてね」
「あっ・・・そ、そのっ・・・・・・」
莉緒は怯えたようにそこから動けなかった。なにしろ真琴ときたら和葉よりも更に背が高く180センチはあろうかという長身に、スポーツ選手らしく男の子のように短い髪とそれに相応しい容姿をしていたのだ。
「ほら、莉緒。しっかり挨拶なさい。お姉ちゃんが恥ずかしいでしょ」
溜まりかねた和葉が手を引いて莉緒を階段から下ろす。彼女はおどおどする莉緒の背中に手を当てて誠に紹介した。
「妹の莉緒よ。ほら、自分で自己紹介できるよね」
「う、うんっ・・・・・・」
こうなれば破れかぶれだった。今さえ乗り切ればもう自室に戻ればいいんだ。莉緒は意を決して口を開いた。
「は、初めまして・・・・・・風祭・・・り、莉緒・・・・・・ですっ・・・・・・」
「かわいいっ!」
顔を赤らめて俯く莉緒の頭を真琴が撫でる。玄関先より一段高い場所にいるのに真琴の方が遙かに頭が上にあった。
「さあさあ、上がってよ。私の部屋二階だから」
和葉はそう言ってから莉緒に耳打ちした。
「もう部屋に帰っていいわよ、ご苦労さんでした」
その言葉に莉緒は心底ホッとした。だがそんな彼に向かって事情を知らない真琴が声を掛ける。
「莉緒ちゃんの為にケーキ買ってきたんだよ。ケーキ好きでしょ」
紙袋を見れば誰でも知っているような有名ケーキ店の紙袋を見せつけ真琴はそう言った。
「ど、どうしよう・・・・・・」
小さな声で和葉に言った真琴は思いも掛けない返答を聞くことになった。
「さあ、莉緒の自由にすればいいんじゃない。でも小学生の女の子のくせにケーキが嫌いとか言ったら変わった子ね、何か秘密があるんじゃないかしらって怪しまれるかもね」
「そ、そんなぁっ・・・・・・」
こうして風祭莉緒(17歳男子)は引き続き小学生女子の振りを続けなければならない事になったのである。