回帰願望

妹が友人とショッピングに出掛けた日曜日。僕はそっと妹の部屋に忍び込んだ。
数年前までは一緒に暮らしていた部屋の半分が今の妹の部屋だ。両親が僕の部屋との間にしきりを作るまでは・・・・
以前には無かった女の子の匂いが鼻腔をくすぐる。まだ中学生だからまさか香水なんてつけていないと思うけど、女の子って何もしなくてもいい匂いなんだ。同級生の男達とは大違いだ。
以前は壁に掛けられていた赤いランドセルと黄色い制帽はもう無い。代わりにあるのはどこか大人っぽい中学のセーラー服。四年前まで同級生の女の子が着ていたのと同じものだ。妹も大人になったんだということを感じながら、僕は忍び足で部屋の奥に向かう。
物を大事にする妹が、それを大事にとっているのは知っていた。僕は胸をドキドキさせながらピンク色をした勉強机の一番下の引き出しを開ける。
僕のとお揃いだけど可愛い色をした妹の机。ブルーなんて冷たい色じゃ無くって、暖かみがある桃色の勉強机。その引き出しの中には僕の求める物が確かに入っていた。
僕が修学旅行でおみやげに買ってきた、女の子向けキャラクターの描かれたお菓子の缶。妹へのおみやげだと言い訳しながらこれを買うときは心臓が止まりそうだったっけ。
音を立てないようにしてそれを開けると、中には確かにそれが入っていた。それも6枚とも完全なままで。
1年生のは黄色。2年生のは水色・・・さすがに古い物は少し変色していたけど、どれも懐かしい色ばかりだ。まさか6枚とも残しているとは思っていなかった僕はしばらく逡巡した。
6年生のは青色・・・これで十分なつもりだった。でも、でも・・・5年生のもある・・・でもこれも濃い緑色・・・なんか汚い・・・そう4年生のは・・・
僕はビニールカバーに覆われた4年生用の名札を手に取った。綺麗な桜色のそれは、僕が4年生当時には男の子達には評判が悪かった。ただ僕は満更でもなかったのを覚えている。だって、堂々とピンク色のものを身に付けて登校できたんだもん。
桜の花びらを模したロゴに『小』の文字が入った校章。左側には妹の字で『園咲 瑠花』と書かれている。今の僕よりも綺麗な字。僕にはやっぱり5年生は早いのかな・・・。
気が付けば僕はそのピンク色をした名札を握りしめていた。今にも妹が帰ってきそうな気がして慌てて缶の蓋を閉じる。元の位置に戻してそっと引き出しを閉じると、忍び込んだ形跡を残していないかを十分に確認してから妹の部屋を出た。
自室に戻って取ってきた名札を改めて見つめる。たったこれだけの事なのに喉がカラカラになっている事にやっと気が付いた。だけど一息つくのももどかしく僕は震える手で安全ピンを外していた。
こんなのを付けるのは何年振りだろう。ピンの先をシャツの左胸に差してみる。真っ直ぐになるように注意しながら裏から針を戻す。男物のシャツだけど胸には確かにピンク色の名札が付いている。僕はゆっくりと立ち上がると姿見の前に立ってみた。
鏡の中に立っていたのは確かに僕。だけど左胸に付けられた桃色の名札だけが、いつもの僕では無い事を証明するかのように電灯にキラリと光っていた。
小学生らしい校章に『柏崎第三小学校』の文字。隣には『四年三組』と確かに書かれている。そう今の僕は確かに第三小学校の4年生なんだ。『瑠花』って文字が邪魔だけど・・・いや今の僕は園咲瑠花なんだ。それも小学4年生の・・・。
しばらくの間僕は鏡を見ながら小学生に戻った気分を味わっていた。去年高校を卒業後、滑り止めの大学にさえ落ちてしまい、なんとも言えない虚しい浪人生活を送っていた僕にとってそれはほんのささやかな息抜きのつもりだった。
今でも思う。あんなことしなければ良かったって・・・この姿を誰かに見せたいなんて思わなければ良かったって・・・・・・。

翌日の月曜日。僕はズボンのポケットにあの名札を忍ばせてこっそりと家を出た。時間は三時過ぎ。向かう場所は決まっていた。
家の前の小道を抜け、大通りを左に曲がる。200メートルほど進んだ場所にあるスーパーマーケットに入ってすぐにトイレに駆け込んだ。平日のこんな場所は空いているのはいいんだけど、僕みたいな若い男だと目立って仕方無い。僕はなるべく目立たない様に男子トイレの個室に入ると、ジャンパーの襟元を開いて、中に着ていたシャツに名札を付けてみた。
なんだろう。昨日もつけてみたのに今日のドキドキ感は昨日とは比べものにならない。やっぱり外でだからなんだろうな。再びジャンパーの前を閉じると僕は個室を出た。
「あっ!」
思わず声が出そうになった。個室の前では小さな男の子が当たり前だけど立ったままオシッコをしていたんだ。
小学5年生くらいだろうか。小さいとは言ったけどそれは年齢の話であって、小柄な僕よりも背の高い彼は、何故か不審そうにこっちをちらりと見た。まるで上着の下の名札を透視されたかのように感じ、僕は手に汗を掻いてしまった。後で考えると、入っていただけで便器を洗浄せずに出てきたからなんだろうと思う。
彼はすぐにオシッコを終えると僕と並んで洗面台に立った。鏡で見ると確かにあの緑色の名札を胸に付けている。柏崎第三小学校の5年生に違い無かった。自分は今この子より下の4年生の名札をつけていると考えると頭が沸騰するように恥ずかしかった。それでも何故か恥ずかしいのに悪い気分じゃ無かった。
スーパーを出てもう一度左へ曲がる。公園の傍を過ぎると、黄色い旗を持った女の人が立っていた。腕の腕章には「第三小」の文字。当然ながら生徒ではなく先生なんだろう。見れば僕とさほど変わらない年齢の若い先生だ。分からないと信じていながらも、僕は胸を爆発させそうになりながらその脇を通った。
信号が青になるのを待って横断歩道を渡る。でも先生は当然ながら何もしてくれない。僕が小学校の生徒だったら旗を上げて渡るのを見守ってくれたのにな・・・。
横断歩道を渡ると学校はすぐ先だ。ふと顔を上げると、前からランドセルを背負った二人の女の子が笑いながらこちらへ歩いてくる。胸の名札を見ると僕のと同じ・・・4年生だ。だけど僕の事を知っている筈も無く、彼女達はすれ違うだけだった。
しばらく歩いて校門まで来るとなんだか少し淋しくなった。一体僕は何をしているんだろうか。どうして名札一つでここまで緊張してるんだろう。その時僕の中で何かが弾けた。財布の中身をすぐに確認する。お小遣いをもらったばかりだから五千円札が一枚目に止まった。これだけあれば『道具』を揃えられる。僕はさっきのスーパーへ再び駆け込んだ。
普段ほとんど行かない二階へ行き子供服コーナーへ。色とりどりの可愛い服が並ぶ女児服コーナーが気になったけど僕には近づく勇気は無かった。弟の服でも買いに来たという顔をして男児服コーナーをしばらく物色した。
男の子向けキャラクターの描かれたトレーナー。これは少し幼稚すぎるかな。胸にワッペンのついた黄色い長袖Tシャツ。これなら4年生に見えるかもしれない。
下は水色チェックのハーフパンツ。ちょっと可愛すぎるかもしれないけど僕はもう大人。少しやりすぎくらいの方がいいだろう。
値段を確かめると二つとも1980円。これならなんとかなりそうだ。150サイズを選んでレジへ向かう。男が男の服を買うんだから何が恥ずかしいものか。
レジにいたのはママよりは若い女の人だった。大丈夫だと思っていたけど、彼女は僕をジロジロと見渡した。何だと思っているんだろう。大人なのに子供服を買いに来た変な人だろうか。だけど正直な話僕は彼女が何を思っているのかを想像出来ていた。19歳になりながら童顔で背の低い僕が精々中学生程度にしか見えていないことを。そんな年頃の男の子が、こんな小さなスーパーに一人で自分の服を買いにくるなんて滅多にないのだろう。
でも僕は只の客だ。お金を払って奪うように商品を取ると、そのままさっきと同じトイレの個室に駆け込んだ。
さっきまで着ていた大人っぽい服を脱いで鞄に詰め込む。スーパーの袋を開け、今買ったばかりの子供服を取り出す。買ったばかりの洋服の良い匂いがトイレの嫌な雰囲気を掻き消した。
乱暴にタグを取り去って本来は僕よりも遥かに小さな男の子が着る服に袖を通す。悔しい事に150サイズでもちっとも窮屈じゃなかった。むしろズボンはぶかぶかな様子で、まるでお兄ちゃんのお下がりを着せられた弟のようだった。
いよいよ先程の服から外した名札を新しい服に取り付ける。名札だってこんな子供服に付けて貰った方が嬉しいに違い無い。深呼吸をして今度は忘れずに便器を洗浄した。音が鳴り止むまでに外にでると決意して数十秒。僕は個室の扉を開けた。
先程と違い剥き出しになって、誰から見ても丸見えになっている胸の名札。幸いトイレには誰もいなかったけど、鏡で自分の姿を確認して震えが止まらなかった。
やっぱりやめよう。こんな事をしてなんになるんだという心の声が聞こえる。だけど一方ではもう引き下がることなんて出来なかった。ほらよく見ればどう見ても子供にしか見えないじゃないか。せめて・・・せめて・・・誰でもいい。誰かにこの姿を見て欲しかった。僕をまだ小学生だと誰かに認識してほしかった。そう言い聞かせて僕はトイレを後にした。足下がふわふわして歩いている気分がしなかった。
目立つ鞄をコインロッカーに入れて再び学校方向へ向かう。初めに出会ったのは今度こそ本当に小さな女の子だった。まだ一年生だろう。肩に黄色い腕章を付けている彼女は僕を一瞥だけしてすれ違っていった。
少なくとも変には見えていない。今から思い出すと妙な自信を付けて僕は学校へと歩みを進めた。だけど公園の前まで来たときには冷や汗が出た、さっきの先生がまだそこに立っていたからだ。
女の先生は僕の方を見ると少し怪訝な表情になった。やっぱり19歳がこんな格好してるなんて無理があるんだろうか。しかも胸には4年生の名札まで付けているから不審人物だと思われているのかもしれない。
だけど今更急にUターンしては更に怪しまれてしまう。僕は思いきって横断歩道の前に立って信号が青に変わるのを待った。
「忘れ物?」
不意にそんな言葉を掛けられ、僕は数センチ飛び上がった。
「い、いえ・・・は、はい・・・」
俯きながらそんな訳の分からない言葉を答えていた記憶がある。考えてみれば制帽も被らず手ぶらで、しかも下校時間に学校に向かおうという生徒が妙に思われない筈は無い。自分でも馬鹿なことをしたと思ったが、幸い好意的に捉えてくれた先生は信号が青に変わると、横断歩道の真ん中で旗を持って僕が安全に渡るのを手伝ってくれた。
「ありがとうございます」
そんな言葉を言いたかったけど、とてもじゃないけど怖くて言えなかった。やっぱり僕は先生にお礼も言えないまだ躾の出来ていない子供なんだ。先生が4年生の担任じゃ無かった事に感謝して僕は校門前までやってきた。
校門前には大きな男の先生が仁王立ちしていた。初めから中に入るつもりなんて無いけど、そんな顔で睨まれたら震え上がってしまう。僕は手足をカチコチに伸ばして校門の前を早足で過ぎ去った。前には数人の女の子達が仲良く歩いている。手を繋いでいるのは姉妹だろうか。ランドセルが、とりわけ赤やピンクや水色の綺麗な色遣いのランドセルがとても羨ましかった。
仕方が無いので学校の周りを一周することにした。途中すれ違った6年生の女の子と目が合ったので思わず会釈してしまってけど変だったかな。でも僕は下級生だからこれでいいんだよね。
もう一度横断歩道に戻ると先生はもういなかった。公園の時計を見るともう四時半だから下校する生徒も少ないのだろう。目的も達成したし、このまま家に帰ろうかと思ったけど、その時僕は魔に差された。折角だからもう少し小学生気分を味わおうなんて思っちゃったんだ。
車止めのある入り口を通って公園へ一人入る。幸いだか残念だか公園には誰もいなかった。僕は半分胸をなで下ろしてベンチに座った。他人からみたら僕は何をしてるように見えるかな。友達のいない4年生の男の子かな。家に帰るのが嫌な子供にも見えるかもしれない。そんな事をぼんやりと考えていた僕の目に、感傷に浸るにはぴったりの遊具が飛び込んで来た。吸い付けられるように僕は立ち上がると、ブランコに腰を掛けた。そろそろ日も暮れ始めて夕陽が赤くなってきている。まるでママに叱られて家を飛び出した子供みたいだ。実際には僕のママは優しくてそんな経験は無いんだけど。そんな馬鹿な事を思いながら僕はゆっくりとブランコを漕いだ。
「何してるの?」
今度こそ心臓がひっくり返るかと思った。突然聞こえたその声の主は僕の背中を強く押したんだ。
「わっ!」
僕は慌てて両手で鎖を掴んだ。そんなに角度はついてなかったと思うけどブランコなんて久しぶりの身には恐怖に感じた。声の主は僕の怖がる姿をクスクスと笑い、やがて揺れが治まると同時に僕の前に姿を現した。
「第三小の子だよね?」
彼女は華麗にステップを踏んでブランコの前の柵に腰掛けた。黒目がちの大きな瞳に鼻筋の通った美少女だ。肩まで伸ばしたロングヘアに、ワンポイントに付けている星型のパッチン留めが可愛らしい。夕陽を浴びてキラキラと光る彼女の姿は本当に絵になって、僕は一瞬現実じゃない世界にトリップしたかと思った程だった。
「4年生かな?こんな時間に一人でどうしたの?」
だけどその言葉に僕は一気に現実に帰った。すっかりとこんな格好をしている事を忘れていたんだ。よく見れば彼女も同じ名札を付けている。その青色の名札は僕よりも上級生であることを意味していた。
「あ、あの・・・・・・」
そのまま駆け出して逃げようかとも思ったが、僕の方を見て笑みを浮かべる彼女の姿はあまりにも魅力的だった。僕は立派な上級生の前で緊張している下級生のようにそのままブランコに腰掛けているのが精一杯だった。
「一人?お友達とかいないの?」
「う、うん・・・・・・」
はい、と答えようとしたけど、この方が子供らしいと思って僕は知らず知らずのうちに演技を始めていた。
「その・・・転校してきたばかりだから・・・・・・」
自分でもよくそんな嘘をついたものだと思う。きっと目の前の美少女と話をしたかっただけなんだと思うけど。
「ふーん、そうなんだ」
彼女は足を振ると、軽い身のこなしでジャンプするように鉄柵から飛び降りた。膝上までしかないプリーツスカートが捲れ上がり、僕は年甲斐もなくどきっとしてしまった。だけど彼女は座ったままの僕の姿を見下ろしながらこう言ったんだ。
「ねえ、いつもそんな格好なの?」
その台詞を聞いて僕は後悔した。やっぱりおかしな格好に見えてるんだ。こんなことならもっと早く逃げ出しておけば良かった。
目の前の少女は『SWEET GIRL』と書かれたミント色のトレーナーに、皺一つ無い折り目のきっちりとしたプリーツスカートを穿いている。上着と合わせた水色のハイソックスに包まれた素足はとても華奢で、その小さな足首から先はパステルカラーのスニーカーで覆われていた。
妹も以前はこんな格好をしていたっけ。やっぱりこんな子と同じ小学生だなんて無理があったんだ。僕が顔中から汗をかき始めた時、少女は意外な言葉を口にした。
「女の子の服嫌いなの?」
「へっ!?」
思わず喉の奥から変な声が出てしまった。
「ど、どうして・・・?」
「だって、そんな男の子みたいな格好してるから」
彼女は屈託無く答えた。その視線の先を見て僕はようやく気が付いた。
「『るか』ちゃん読むのかな?折角可愛い名前なのに勿体無いわよ」
彼女は僕の名札に手を添えてそう言った。『瑠花』なんて名前の男の子がいるはずも無い。僕はなんということか、この少女に女の子として認識されてしまっていたのだ。
「えっ・・・い、いや・・・あの・・・」
まさか妹の名札を付けているなんて言える訳も無く、僕は頭をぐるぐると回転させて言い訳を考えた。なるべくこの場を穏便に済ませないといけない。だけど出た言葉は自分でも思いがけない言い訳だった。
「ち、違うの・・・私はもっと可愛い服着たいんだけど・・・これ、お兄ちゃんのお古なの・・・」
その時は巧い説明のつもりだった。だって女の子が着るにはおかしすぎる服装だったからなにか理由をつけなくちゃって思っていたんだ。でも今考えると心の奥では、僕はこの先の展開を本当は期待していたのかもしれない。
「ふーん、そうなんだ。お兄ちゃんいくつ?」
「ちゅ、中三・・・」
僕は思わず妹の学年を答えてしまっていた。そして少女は口に手をあてて、しばらく考える振りをしてからこう言ったんだ。
「ねえ、私とお友達にならない?」
「えっ?」
「実はね。私も転校してきたばかりでお友達がいないの。もし瑠花ちゃんさえ良ければなんだけど・・・」
「で、でも・・・あたし・・・年下だけど・・・」
夕陽に照らされていなかったら僕の頬が真っ赤になっているのがばれてしまっていたと思う。
「そんな事関係無いわよ。わたし一人っ子だから妹って欲しかったの。ねっ、いいでしょ?」
少女はあろう事か目の前に腰を下ろすと、ぎゅっと両手で僕の手を握った。白くて暖かい指の感触は僕の理性を失わせるのに十分だった。
「はっ、はいっ。じゃあお友達にして下さい。ええっと・・・」
「すずは。にしざわ・すずはって読むのよ」
少女は自分の名札を僕に向ける様にして言った。そこには確かに『西沢鈴葉』と書かれている。
「あれどうしたの、変な顔して?そんなに変な名前かな・・・そっか、まだ4年生じゃこんな漢字は習っていないのかな?」
僕は曖昧に頷いて見せたけど、勿論理由はそんな事じゃ無かった。
「じゃあ今日はもう遅いから帰りなさい。ママが心配するわよ」
鈴葉ちゃんはお姉さんぶって僕の手を引いた。立ち上がると彼女の背は僕よりほんのちょっぴりだけ高かった。
「4年生にしては大きいのね。クラスでも後ろの方じゃない?」
「う、うん・・・後ろから三番目・・・なの・・・」
僕はまた適当な事を言ってしまった。でも鈴葉ちゃんよりは低くて少しだけ安心したのも真実だ。自分の背が低くて良かったなんて思ったのは生まれて初めてだった。
「じゃあ、明日の放課後ここで会いましょうか。明日は六時限目までだよね?」
「は、はい」
「じゃあ約束よ。それから・・・」
彼女は一度背を向けてから再び向き直り、恥ずかしそうに言った。
「そ、その・・・す、鈴葉・・・お姉ちゃんって・・・呼んでくれても・・・いいよ・・・」
その照れた顔はとても愛らしく、状況が状況ならば抱きしめたくなる程の可愛らしさだった。だけどその時の僕にそんな事は出来る筈も無かった。結果・・・
「う、うん・・・鈴葉・・・お、おねえちゃん・・・・・・」
「か、可愛いっ!!瑠花ちゃん可愛いっ!!」
同じく恥ずかしそうにそう言った僕は、あべこべに彼女に抱き抱えられてしまったんだ・・・。

夢のようなほんの少しの時間の後、僕は猛烈な後悔を感じ始めていた。いくらなんでも19歳の僕に4年生の女の子の代わりが務まる筈も無い。だけど約束をすっぽかしたら鈴葉ちゃんがどれほど悲しがるかは目に見えていた。
明日だけ、明日だけ女の子の振りをしてもう一度だけ彼女に会いに行こう。それから何かの理由を付けてもう会えないという事にすればいい。その時僕は西沢鈴葉という少女に、『鈴羽』という僕と同じ名前の少女に運命的な出会いさえ感じていたのだった。

再び着替えて家に帰ると、僕は買ったばかりの男児服を家族に見付からないようにタンスの奧にしまい込んだ。もちろん妹は僕に名札を拝借された事など気付かずにいつもと変わりなかった。ただ妹が僕を『鈴羽』と呼び捨てにする度に僕は勝手に心臓を高鳴らせていただけだ。
今年中三になった妹に僕は二年も前から身長を追い抜かされている。その頃から彼女は僕を『お兄ちゃん』ではなく『鈴羽』と呼び捨てするようになってしまった。一度その事で大げんかをし、僕が一方的にボコボコにされたのが両親が二人の部屋を分けた切っ掛けだ。それ以来特に不仲ではないが、少しぎくしゃくとした空気が二人の間には流れている。ただそれがスポーツも学業も優秀な妹に対してのコンプレックスである事も僕は承知しているんだけど・・・。

翌日の火曜日。両親が仕事に、妹が学校に出掛けた後、僕は大仕事に取りかかった。勿論言わずもがな今日鈴葉ちゃんに会うための身支度だ。
一応玄関に鍵を掛けてから妹の部屋に侵入する。二日同じ服を着ていく訳にもいかないし、お小遣いも昨日でほとんど使い切ったから、まずは今日着ていく服を入手しなければいけなかった。押入の扉を開き、跡が残らないように慎重に前に積まれた衣装ボックスを取り出す。中に積まれた古いダンボールに妹の古着が詰まっている事は以前から知っていた。
ほこりを飛ばさないようにそれを取りだしてそっと蓋を開く。きっちりとクリーニング袋に包まれたままの衣装は妹の性格を反映してまだとても綺麗なままだ。懐かしい記憶を蘇らせる可愛らしい衣装が僕の目に次々と飛び込んでくる。くまのアップリケのついたジャンパースカート。サクランボの刺繍の入った丸襟のブラウス。胸に本当のリボンのついた薄いピンク色のトレーナー。まだ僕より遥かに小さかった時の妹の姿が目に浮かぶ様だった。
その後何個かの箱を開け、ようやく着ることができそうな古着を探し当てた。確か妹が僕の身長くらいだった時に着ていた洋服だ。やせっぽちの僕に着れない筈が無かった。
しばらく迷いに迷ってから、胸に英語の文字と小さなクマのぬいぐるみのキャラクターがプリントされたトレーナーを選んだ。文字は筆記体で何と書かれているのかは分からなかったけど、薄い水色の生地でキャラクターも小さいから、一目見ただけでは女の子用には見えないかなと思ったのがその理由だ。
同じく下の服もまさかスカートを穿く勇気は無かった。パンツスタイルならなんとかなると思ったけど、以前はスカート派だった妹のお古を探すのは大変だった。結局七分丈のジーンズを選んだんだけど、後ろのポケットがハート型になっていたり、膝のところに兎の着ぐるみを着たみたいなキャラクターが書かれたようなちょっと恥ずかしいものしか無かった。
そうなると足下が目立つので靴下も選ばないといけない。ダンボール箱の片隅からトップスと合わせた水色の靴下を選んで床に並べてみると、自分でも驚くくらいピッタリのコーディネートになったので僕は少し安心した。
だけどまだ僕の仕事は残っていた。古着の入ったダンボールの更に奥、目的のものはひっそりと眠っていた。ダンボールにはマジックで『瑠花・小学校の思いでの品』と書かれている。少し躊躇したけど、ここまで来て諦める訳には行かなかった。鈴葉ちゃんの為だと言い聞かせ僕はその大きな箱を開いた。
「ぁっ・・・・・・」
僕は思わず声を漏らした。入っていたのは目的の品。妹が6年間背負っていた真っ赤なランドセルと通学用の黄色い帽子だ。思いもよらずそれらは綺麗でとても使いふるした感じはしない。これなら4年生のランドセルとして通用すると思って僕は安堵した。
鈴葉ちゃんと待ち合わせした時間は六時間目終了後すぐの時間だった。もちろん浪人の僕にとって午後のそんな時間は何の問題も無かったけど、僕が第三小学校に通っているとすればとてもじゃないけど一度家に帰っている余裕など無い時間だった。
そうなれば嘘でもいいから下校中の振りをしなければいけない。第三小では四年生まではランドセルでの通学が義務づけられているから、必然的に僕にはそれが必要だったんだ。
さすがに怖くなって、目的の物以外を慌ただしく押入にしまい込み、僕は自室に戻った。目の前には女の子の服装一式とランドセルと制帽。午後からこの格好で出掛けると考えると胃がキリキリとするようだった。試しにランドセルと背負って見ると、それは全く苦しく無く僕の背中にフィットしてしまった。そう言えば小学校卒業の時に妹はもう僕と変わらない体格をしていたんだ。それ以来妹は成長し続けて、僕はまるで小学生のままなんだけど・・・。

お昼ご飯はとても喉を通らなかった。少し早いけど三時前に家を出る。誰かに見られたら大変な事になるからもちろん普段の男の子の姿のままだ。
だけど背負ったリュック型鞄には瑠花の部屋から拝借した女児服と小学校の学童用品が詰まっている。ランドセルはとても鞄には入らなかったから大きな紙袋に入れて手から提げる事にした。
誰にも分からないと思いながらも心臓をバクバク言わせて例のスーパーへ向かう。一階のトレイは人が来るかもしれないので三階の日用品売り場へと向かった。平日のここなら他の客は少ないに違い無い。
まだ綺麗なトイレの個室に入って深呼吸をし、背負っていた鞄を広げて着ていた服を脱ぎ捨てる。トレーナーを素肌に直接着てズボンを脱ぐと、僕は自分の愚かしさに呆然となった。下着が男の子のままじゃないか。
だがよく考えてみればスカートを穿く訳じゃないからそんな事を気にする事は無いかもしれない。思い直して真っ白いブリーフの上から女の子用のジーンズを穿く。なんだか分からないちょっとした違和感を感じたけど贅沢は言ってられない。
靴下を履きかえ更に僕は大変な事に気が付いた。僕の履いていたのはねずみ色のどう見ても男物のスニーカーだった。いくら洋服をコーディネートしてもこれではどうしようも無い。いやなまじ上着だけが女児服だから靴の違和感は例えようもないくらい酷かった。だけどもう帰っている時間は無いし、いくら妹でも靴までは残していないだろう。しばらく迷ったあげく僕は脱ぎ捨てたズボンに入ったままの財布を覗き見た。
入っていたのは小銭を合わせればおよそ二千円。なんとかなるかは分からないが僕はそっとそのままの姿で個室を抜け出した。店内でランドセルを背負う勇気なんて無かったけど予行演習にはなるかもしれない。付近に誰もいない事を確認して僕は女児服のまま男子トイレから駆け出した。
幸いな事に三階には誰もいなかった。遠くにレジのお姉さんが一人何か作業しているのが目に付くだけだ。同じ階に靴売り場があることは知っていた。ちゃんと女の子に見えるか心配しながら僕は売り場へ向かう。
あまり大きくない売り場の一角は、そこだけお花畑のように可愛らしいシューズが並んでいた。棚の上には大きく『女児用』。一段一段の脇にはサイズが18.0〜23.0センチくらいまでのポップが掛かっている。23センチなら十分に履く事が出来るだろう。その棚にある靴はどれも魅力的なものばかりで僕はたちまち魅了されてしまった。
何色ものパステルカラーで彩られた靴。蛍光色のハート型が可愛らしい靴。踵の部分がクルマのライトに反射するようになった安全靴。僕はそれらを手にとってどれが今の服装に合うかを真剣に考え始めた。だけどそれがいけなかったんだ。
「靴を探してるの?」
突然背中から声を掛けられて僕はいつかの時と同じ様に飛び上がるほど驚いた。
「サイズはいくつなのかな?」
振り向けば地味な制服にエプロン姿の店員さんが立っていた。歳はまだ若そうで胸に付けた名札には「アルバイト」と書かれている。でもその下に書かれた彼女の名前に僕は心臓がひっくり返るかと思った。
『富永 佳絵』
うっすらと化粧をして大人っぽくなっているけど、僕の高校時代の同級生の富永佳絵に違い無かったからだ。
「いっ・・・・いや・・・あの・・・はい・・・・」
逃げ出したりしたら返って怪しまれる。今時のスーパーには監視カメラだって大量についているんだから万引きだと思われたらそれこそ大変だ。僕は出来るだけ作り声で俯いたまま靴を選ぶ振りを続けた。
「に、にじゅう・・・さんせんち・・・くらい・・・」
幸いな事に彼女は僕に気が付いていないようだった。名札はつけていないが一体いくつくらいに見えているのだろうか。そもそも女の子に見えているのかどうかさえ怪しかったが、卒業以来伸ばし続けている髪のおかげで、彼女は僕を自分よりも小さな少女として認識してくれているようだった。
「そう、ならこのあたりのがいいかしら。通学用?それとも運動会とか?」
口の利き方からして、彼女はどうやら僕を小学生扱いしているに違い無かった。だけどそれも無理は無い。今時のお洒落な中学生がこんな幼稚な格好をしている筈も無いからだ。
「う、うん・・・学校に・・・はいていく用だよ・・・・・・」
なるべく女子小学生になりきって、裏返った頼りない口調で話す。なんだか本当に小さな子に戻ってしまった気がして酷く気恥ずかしい。
「じゃあ、これなんてどうかしら。今小学生の女の子に大人気なのよ」
だが改めてそう言われて僕はドキリとした。この間までの同級生に小学生の女の子扱いされている。そう思うと恥ずかしい・・・恥ずかしいのになにか不思議な気分だった。
「あ、あの・・・あまりお金ないの・・・・・・」
だけど3980円という値札を見て僕は慌てて頭を振った。彼女はうーんと困った顔をして一生懸命僕の靴を選んでくれている。その姿は僕なんかよりも凄く大人に見え、同い年なのに酷く差を付けられた気がした。でも、でも何故か悔しくは無かった。
「じゃあこれなんてどう?可愛らしいお洋服にぴったりよ」
「えっ!?あっ、はいっ!」
ぼおっと彼女に見とれていたところに声を掛けられ僕は驚いた。それは一面に散りばめられたハートマークの可愛らしい子供用スニーカーだった。薄い目の水色にピンク色をした靴紐が可愛らしい。大人に見せれば安っぽいと言われるような色遣いだったけど、僕はそれが一目で気に入ってしまった。だってこの親切なお姉さんが選んでくれたんだもん。
「う、うん、あたしこれにする」
気が付けば僕はそのスニーカーを抱きしめるようにして彼女を見つめていた。
「・・・えっ?」
そこで時間が止まった。にこやかにしていた彼女の視線が僕の顔を見つめたままになったからだ。
「そ、園咲・・・・クン?」
人生が終わったと思った。同級生に女装、しかも女児服を着てあまつさえ女の子用の靴まで買い物をしているところを見られてしまったのだ。僕は何も言い返す事もできずにその場に立ち尽くした。
「ま、まさかねっ」
だがすんでのところで僕は一命を取り留めた。彼女は自分の考えを振り払うように首を振ると僕に向かって再び笑いかけた。
「ごめんね。お嬢ちゃんが私の知っている人にそっくりだったから、ちょっと驚いちゃったの」
彼女は言わなかったが、同級生だった男の子に似た少女を見てよほど面白かったのだろう。プププと含み笑いをしながら僕の背中を押してレジへ案内してくれた。
「じゃあね。またお買い物に来てね」
富永佳絵はそう言って再び売り場の整理へと戻って行った。僕は驚きと安堵の中ありったけのお金を払い、ようやく靴を買うことに成功したんだ。

時間を見ればもう約束間際だった。再びトイレに駆け込んでシューズについたタグを引きちぎってそれに履きかえる。余裕が無かったからその場でランドセルも取りだして、背負っていた鞄を中に詰め込んだ。
昨日と同じ四年生の名札をトレーナーに取り付けようとして僕はあたり前の事に驚いた。トレーナーの左胸の部分には何度も名札を取り外しした針の跡が残っていたからだ。
もう何年も前に妹はこの服に今の僕と同じ様に名札をつけて小学校に登校していたんだ。しかも瑠花のつけていたのは今僕が持っているのよりも二学年も上の六年生のものだったんだ。一瞬自分が瑠花の妹になってお姉ちゃんのお古を着せられている妹の気分になり、僕は頬を赤らめながらそれを胸に取り付けた。
恥ずかしくたってかまわないもん。これはほんの遊び。それも鈴葉ちゃんっていう女の子を元気にする為だから・・・僕は自分自身にそう言い聞かせてランドセルを背負い、黄色い制帽を頭に被った。

誰にも見付からないように男子トイレをあとにする。洗面台の鏡でチラリと自分の姿を見て、大変な事をしてしまっていると改めて感じたけど、もう後戻りは出来なかった。
出来るだけ誰にも見られないように階段で一階へ駆け下りる。踊り場の休憩所でおばさんが一人座っていたけど、こちらに気が付く素振りは無かった。
そうして僕はスーパーの二重扉をくぐって、いよいよ女子小学生の姿のまま街に出てしまった。緊張でなんだか頭がクラクラした。喉が渇いて水でも飲みたかったけど食料品売り場になんて行く勇気も無い。そういえば公園には水飲み場があった筈だ。自分に言い聞かせて僕は一歩を踏み出した。
昼下がりの太陽は控えめながら僕を照らし、舗道に出来た影はランドセルの形に背中が膨れ上がり、真っ昼間の平日に小学生姿で街を歩いている事実を否応無く僕に知らしめる。
さっきのように知り合いに出会う可能性を考えて僕は出来るだけ俯いて歩いた。こんな時には通学用の鍔の広い帽子は便利だった。女の子としては少し短すぎる髪も隠してくれるし、なにより顔や表情をすれ違う人に見られる事も無かったからだ。
「あっ!」
だけど僕はすぐにそれが危険だと言う事を知ることになった。
「大丈夫?」
舗道ばかりを見ていた僕は、すれ違いざまに女の人の鞄とぶつかってしまったんだ。
「大丈夫?怪我は無い?」
ぶつかったのは見た事のある通学鞄だった。そう妹の部屋にあったものと同じものだ。
妹と同じ制服を着た女子中学生は僕の前にしゃがみ込んで心配そうな顔をした。
「う、うん・・・大丈夫・・・・・・」
恥ずかしさに僕は顔を見合わせることも出来ずに頷いた。安心した彼女は立ち上がると僕の帽子の鍔を持ち上げて言った。
「良かったわ。でもお姉ちゃんも不注意だったけど、あなたももうちょっと前を見て歩かないと駄目よ」
僕は今遥かに年下の女子中学生にそんな注意をされてもおかしくない姿なんだ。そう思うと恥ずかしさに消えてしまいたくなった。
「ご、ごめんなさい・・・」
だけど僕は素直にそう言って女の子を見上げた。自分を小学生として認めてくれた彼女に行為を持ったからかもしれない。
「うん、素直で偉いわね」
僕と変わらない背丈の彼女はとても優しい笑顔を僕に見せてくれた。僕の頭をひと撫でしてくれてから彼女は言った。
「もう四年生なんだから、外を歩くときも下級生のお手本にならないといけないわよ。あと、知らない人に声を掛けられてもついていっちゃ駄目よ」
僕の鼻先に人差し指を押し当て、にっこりと笑って『お姉さん』は去っていった。その時僕は一瞬だけ思ってしまった。
「あんな綺麗な中学生になりたいな」
だけど、なれる筈もないという現実と、女子中学生に小学生扱いされたという恥ずかしさがすぐに心に押し寄せ、僕は今度こそ前をしっかり向いて公園に急いだんだ。

道草を食ったから、もう鈴葉ちゃんは来てしまっているかもしれなかった。僕が本当にくるかどうか心配しながら待ってくれているかもしれない。彼女の気持ちを思うとなんだか胸が締め付けられるようだった。両親が共働きだった僕自身の小さい頃ががそうだったからだ。
見れば学校側からは多くの子供達がこちらに向かってきていた。逃げるなんてつもりはなかったけど、僕は公園への近道になる路地に足を踏み入れた。
小道を抜けて公園の南門へ向かう。子供の頃よくこのあたりで遊んだっけ。なんだか本当に童心に帰り、背中のランドセルも不思議な感じがしなくなった気がした。そしてあの頃のように息を弾ませて僕は公園へ駆け込んだ。
まだ早い時間だから公園には誰もいなかった。確か学校帰りにそのまま公園で遊ぶのは禁止されている筈だからだ。だけどその無人だと思った公園に一際目立つ人影があった。
まるでこの世の時間が静止してしまって、そこだけが動いているような錯覚に僕は囚われた。その時間の神クロノスはブランコに立ったまま乗り、艶やかな黒い髪を風になびかせて宙を漂っていた。
その姿の美しさに僕は公園の入り口でしばし呆然と彼女を眺めていた。僕なんかと話せば彼女は只の人間に戻ってしまうなんて馬鹿な妄想さえ浮かんだ。途端に彼女と同じ赤いランドセルを背負っている事がまた恥ずかしくなる。このまま逃げ帰ろうかと躊躇した時、彼女の瞳が僕を捉えた。
「あっ!瑠花ちゃん!」
彼女はそう叫ぶと、ブランコの反動を利用して大きく飛び上がった。一瞬スカートが捲れ上がり、僕のおかしな妄想が彼女を現実に引き戻す。走り寄ってくる彼女を生まれてからなかったくらいに緊張して待ち構え、僕は精一杯の挨拶をした。
「す、鈴葉お姉ちゃん、待たせて・・・ゴメンネ」
「いいのよちょっとだけだから。終わりの会が長引いたの?」
ニコリと笑う彼女に、僕はそう言えばそんなのがあったなと思い出しながら答えた。
「う、うん・・・クラスの子がちょっと悪い事しちゃったから」
「ふーん、どうしたの?」
「そ、その・・・学校にけーたいを持って来たとか・・・」
僕は適当な嘘をまた言ってしまった。
「そうなんだ、四年生で自分のけーたい持っているなんて凄いね。私は来年中学校に行ったら買ってもらうって約束してるんだよ、瑠花ちゃんは?」
「あ、あたしも・・・欲しいんだけど・・・ママがまだ駄目って・・・」
もちろん僕は親のスネかじりながら携帯くらい持っている。その時も実はポケットに潜ませていたんだ。
「そうだよね、まだ四年生じゃ早いよね。その子わるい子だね」
「うん、いつも乱暴とかするから嫌になっちゃう」
「男の子なんだ。どんな事されちゃうの?」
「あっ・・・・そ、その・・・ス、ス・・・スカート・・・めくったり・・・とか・・・」
調子に乗った僕は思わずそんな事を言ってしまった。鈴葉ちゃんの顔が微妙に歪む。ひょっとして今の大人な小学生はそんな事しないんだろうか。
「そう、酷いわね」
だけど鈴葉ちゃんは僕に同調するように頬を膨らませてこう言ってくれた。
「今度そんな事されたら私に言いなさい。先生より厳しくその男の子を叱ってあげるからね」
本当に優しい子みたいだ。こんな子に嘘をついている罪悪感に僕は胸が痛くなった。だけどこうなったらもう彼女を騙し続けるしかないと決意したのもこの時だった。

それから公園のベンチで腰掛けて、僕達はたわいもない話を続けた。学校の事、家族の事、友達の事・・・僕は瑠花になりきって素敵な時を過ごしたんだ。
「今日は可愛い服着てるじゃない」
だけど鈴葉ちゃんがその話題に触れたとき、また僕は緊張で固まってしまった。なにしろ成人近い男が妹の小学生だった頃の服を着ているのだ。なにか少し不自然な事があれば不審に思われるに違い無かった。
「今日は知り合ったお姉ちゃんと遊ぶって言ったから・・・ママがこれ着て行きなさいって・・・」
「そうなんだ。高かったんじゃない?これって『ピアニッシモ』でしょ?」
「えっ?」
「ピアニッシモじゃないの、このキャラもそうだし、ここにもブランド名が書いてあるよ」
彼女は僕の膝の刺繍とトレーナーに書かれた筆記体の文字を指さして言った。どうやら僕の選んできたのは有名なメーカーの子供服だったみたいだ。上下ともお揃いだなんて、通りでコーディネートが抜群だった訳だ、
「あっ・・・う、うん・・・そうなんだ・・・」
自分で着ているのに知らないのもおかしいだろう。僕は曖昧に頷いた。
「私も昔は何着か持ってたわよ。高学年に上がってからは着なくなっちゃったけどね」
あらためて鈴葉ちゃんの方を見ると、今日の彼女はピンク色のブラウスに水色のふわりと広がったミニスカートがとても似合っていた。可愛らしい色遣いながら、それらは凄く大人っぽい姿に見え、僕は急に自分のしている格好が恥ずかしくなってしまった。
「靴も新しいね。でもちょっと洋服とは釣り合ってないかな。折角のピアニッシモなんだからもう少しラブリーな方がいいんじゃないかしら」
どうやら彼女はファッションに凄く興味があるようだった。鈴葉ちゃんはベンチから立ち上がると僕の姿をもう一度見回し、まるでファッション評論家のように色々と教えてくれた。
「瑠花ちゃん背は高いけど、優しい顔をしているからスカートの方が似合うんじゃないかしら」
そんな事を言われて僕は唖然とした。そんなものは女の子の特権だと思っていたし、仮装でさえも穿いたことが無かったからだ。
「そ、そんなの無理だよ!」
僕は慌てて開いた両手を翳して見せた。その反応にきょとんとしてしまった鈴葉ちゃんを見て僕はしまったと思った。今の僕は女の子なんだからスカートくらいをそんなに拒絶しちゃいけなかったんだ。
「スカートあんまり穿かないの?」
鈴葉ちゃんの問いに僕は頷き、慌てたあげく言わなくてもいい言い訳をべらべらと口にしてしまった。
「う、うん・・・あ、あんまりひらひらしてるのって好きじゃないの・・・そ、それから・・・お兄ちゃんも似合ってないっていうし・・・」
「ふ〜ん」
鈴葉ちゃんは少しだけ怪訝な顔をして考え込んでいた。そして僕の顔を覗き込んだんだ。
「そうかしら。瑠花ちゃんって、こうすればとっても可愛くなるって思うけど」
彼女は自分の髪の毛を分けていたパッチン留めを外すと、お互いの顔と顔が数センチという距離にドキドキしている僕の前髪を掴み、本当の妹にするようにそれを付けてしまった。
「あっ」
髪の毛を少し引っ張られるような初めての感触をおでこのあたりに感じる。驚いている僕を余所に、鈴葉ちゃんはランドセルから小さな手鏡を取りだした。
「ほら、見て見て」
今時の小学生はこんなものまで持参しているんだと驚く暇も無く、僕は自分の今の姿を鏡で見せられてしまった。
「えっ?」
鏡に鈴葉ちゃんと並んで映っているのは確かに僕だった。
だけどダラダラと伸ばし続けていた髪を、こめかみの隣に付けられたパッチン留めで分けられた僕の顔付きは、下手をすると本当に鈴葉ちゃんよりも幼く見えるくらいだった。
「ねっ、似合ってるでしょ」
手鏡をパチンと閉じながら彼女は笑った。一時の魔法。恐らくその時僕が見たのは魔法の鏡に映し出された僕の理想とする僕だったのかもしれない。冷静に考えれば高校さえ卒業した男の子にパッチン留めなど似合う筈も無いのだ。
「ねえ、門限何時?」
だけどその魔法はまだ僕には効いていたみたいで、なんだかワクワクしているような様子で鈴葉ちゃんは驚くべき言葉を口にしたんだ。
「ねえねえ、今から私のうちに遊びに来ない?スカート穿いた鈴葉ちゃん見て見たいし、お古だけど私の着ていたピアニッシモのお洋服もプレゼントしちゃうからさ」
「あっ・・・・い、いやっ・・・そのっ・・・」
そこで強く断れば良かったんだ。そうすればあんな事にならなかったのに・・・
だけど従来から人に流されやすかった僕はこの時も断り切れずに彼女に手を引かれ、あろうことか女子小学生の姿のまま鈴葉ちゃんと手を繋いで公園を出て行く羽目になってしまったんだ
「あっ、あのっ・・・」
「あっ門限だよね、分かってるよ」
鈴葉ちゃんは僕をいたわるように言った。
「まさか四時とかって事はないでしょ、もう四年生なんだし」
先にそんな風に言われては、僕も否定は出来なかった。
「六時くらいでしょ?なら、まだまだ時間あるよね」
「う、うん・・・六時・・・までには帰らないとママが・・・・・・」
僕は流されるままにそんな答えを口にしてしまった。きっと心の底ではもっと鈴葉ちゃんの友達でいたかったんだと思う。

不思議な事に二人で手を繋いでいると、さっきまでの恥ずかしさは少し和らいだ。本当の小学生と一緒なんだから、男の子だって疑われにくいからって言えばそうなんだけど、なんだか本当に大きなお姉さんに手を繋いでもらっているっていう安心感もあったのかもしれない。
だけど公園を出ると、横断歩道の前に黄色い旗を持った昨日と同じ先生が立っていたので僕はまた少しビクつかなきゃいけなかった。
「あら西沢さん、寄り道しちゃだめよ」
若い女の先生はどうやら鈴葉ちゃんを知っているらしかった。僕は益々戸惑ったままぎゅっと彼女の手を握っていた。
「はい先生。忘れ物を取りに教室に戻るだけです」
ちょっと待って、そんなの聞いてないよ。僕は慌てふためいたが表情に出す訳にもいかない。
「あら、その子は?」
当然ながら先生の目は次に僕に注がれた。鈴葉ちゃんはスラスラと答える。
「昨日お友達になった四年生の子なんです。私と同じ転校生であんまりお友達がいないみたいだったから妹みたいだなって・・・」
鈴葉ちゃんに妹と言われ僕は真っ赤になってしまったが、その顔はすぐに青くなる事になるのだ。
「そうなんだ、西沢さんって偉いわね。下級生に優しくしてあげるのはとっても大切な事よ。あれ、でも・・・」
先生が唇に指をあてて何かを思い出そうとしていた。
「最近四年生に転校生っていたかしら?・・・」
僕は慌てて鈴葉ちゃんの手を引いた。
「ねっ、ねぇっ!早く行かないと遊ぶ時間が無くなっちゃうよー」
その演技が本当にお姉ちゃんと遊びたがる駄々っ子に見えたのだろう。先生は考えるのを中断し、廊下を走っちゃだめよと言いながら僕達が横断歩道を渡るのを見送ってくれた。

鈴葉ちゃんと並んで小学校の壁際の道路を歩きながら、やっぱり僕はドキドキを抑えられなくなってしまっていた。
「ゴメンネ。教室にリコーダーを忘れちゃってたの思い出したの。明日は笛のテストがあるから持って帰って練習しなくちゃ」
そんな言葉を聞いて、やっぱりこの子はまだ小学生なんだなと思い出す反面、ひょっとして自分も小学校に入らないといけないんじゃないかという恐ろしい想像が現実になり始めていた。
「あっ、あのっ、ここで待ってるよ」
正門近くで僕は引き攣った声を出した。
「えっ!どうして?」
鈴葉ちゃんの質問は当たり前だ。自分の通っている小学校に入るのを躊躇う小学生などいる筈も無い。だけど現実の僕にすればそれは犯罪ともいえる行動だった。
「あ、いや・・・えーっと・・・きっといじめっ子がまだ残っているかもしれないし・・・」
嘘が嘘を呼ぶとはこのことだ。僕はまたこの純真な少女を騙してしまった。
「大丈夫って言ったでしょ」
だけど鈴葉ちゃんは、そう言って腰に手を当てて僕の前に仁王立ちした。
「いじめっ子なんてお姉ちゃんが追い払ってあげるわよ。それに行くのは6年生の教室だから誰にも会う心配なんてないわよ」
そうまで言われてはもう良い言い訳も考え付かなかった。いや、僕自身があの経験をしたかっただけかもしれないが、僕はそのまま鈴葉ちゃんと一緒に年年振りかという小学校に足を踏み入れてしまったんだ。

「忘れ物を取りに来ました」
ジャージ姿で校門の前に立った、いかにも怖そうな男の先生に怯えながら僕達は正門をくぐった。先生はちらりと僕の方を見たけど、特に変な顔はしていなかった。
正門前の校舎まで続く懐かしい小道。下段には一年生から六年生と書かれた札のついた植物が植えられ、僕達卒業生が一文字ずつ彫った校歌の刻まれたオブジェがでんと構えていた。
だけど懐かしがっている余裕は無かった。校舎へ入ると上履きに履きかえなければならないのだが、当然の如く僕の靴箱なんていうのはここには存在する筈が無かったからだ。
「どうしたの、4年生はあっちでしょ?」
場所が分からずに戸惑っている僕に鈴葉ちゃんが指を指して教えてくれた。園咲なんて変わった名前がある筈もないからその事を指摘されては大変だ。僕は慌てて一人で四年生用の靴箱に向かった。
僕の通っていた時よりクラス数は減っているらしく、名前の書かれていない靴箱が沢山あった。試しに中を覗いて見たけど、やっぱり中身はからっぽだった。僕は心の中でゴメンナサイを何度も唱えながら、目に付いた誰のかも分からない靴箱を開けた。
プーンという汗の入り混じった臭いが鼻を突く。踵の部分に『あいだ』と書かれた上靴を引きずり出して慌ててサイズを確かめる。20.5センチ。これでは履けるはずも無い。僕はすぐにその靴をしまって、隣の靴箱を開ける。
今度は22.5センチ。これなら履けるかもしれないと喜んだが、よく見ると甲のゴムテープに『山野』という名前が書いてある。僕は慌てて隣の靴箱を開いた。
「どうしたの!?上履き見付からないの?」
遠くから鈴葉ちゃんの声が聞こえ、僕は益々焦った。次に取りだした靴のサイズはなんと23センチ。今履いているのと同じサイズだ。隅々まで確かめても名前なんかも書かれていない。僕は持ち主に謝りながらスニーカーと上履きを入れ替えた。
「ま、待って!今履いているから!」
鈴葉ちゃんの近づいてくるぺたぺたという音が聞こえ、僕は大声で叫びながらその誰のかも分からないバレーシューズに足を通した。
幸いな事に僕の足に上履きはぴったりだった。懐かしい感触に足を締め付けられながら、僕は鈴葉ちゃんの元に走って行った。
「ごめんなさい。まだ自分の靴箱の位置をあんまり覚えて無くって」
転校生ならありえる話だろう。僕は息を弾ませてそう言った。
「そう」
だけど鈴葉ちゃんは僕の足下を見つめると、何故か少しだけ怪訝な顔をして言った。
「じゃあ教室まで付き合ってね。慣れない靴だから足を痛めないようにね」
慣れない靴?前の小学校では上靴じゃ無かったって思われているんだろうか。僕は嫌な予感を少しだけ感じつつも、上級生についていく下級生のように鈴葉ちゃんの後を追って、小学校の階段を昇っていったんだ。

六年生の教室は三階にある事を僕は思い出していた。昔はなんとも思わなかった階段だけど、その一段一段の段差はかなり小さい。踊り場に張られた「階段では遊ばないように」と描かれたポスターがここが小学校であることを主張していた。僕は懐かしさと恥ずかしさに胸を締め付けられながら階段を登り切った。
誰もいない学校には独特の雰囲気がある。鈴葉ちゃんは僕の方を振り向いてこう言った。
「ここが六年生の教室よ。私の席は窓際なの」
そういって彼女は僕の手を引いた。
「は、入って・・・いいの?」
小学校のみならず、中学でも高校でも上級生の教室というのは何か近づきがたいイメージがある。僕は咄嗟にそう言って鈴葉ちゃんの眼を見つめた。
「うん、お姉さんが許可してあげる。遠慮しなくていいのよ」
どこか逆らいがたい雰囲気があった。教室にまで入ってしまったら本当に不法侵入になってしまうと思っていた僕だったけど、その言葉に引き込まれるようにして中に入ってしまったんだ。
「わあ」
思わず声が出た。整然とながら少し歪んで並べられた机と椅子。黒板に描かれた日直の文字。後ろの壁いっぱいに並べられた習字の作品。その下にあるランドセルを入れる為のロッカー。どれもが懐かしかった。
「ここが私の席なの」
壁際の一番後ろが鈴葉ちゃんの席だった。彼女はその机にかかった手提げ鞄を手にとって言った。
「良かった。体操着盗まれてなくて」
盗まれてという言葉に僕は少し冷や汗をかいた。なにしろもう二十歳になろうかという男性が小学校に忍び込んでいるのだ。それが目的と指摘されても仕方がない状況だったからだ。
「一応、中身を確認しておこっと」
独り言を言うと、何故か鈴葉ちゃんは机の上に体操着を広げ始めた。
桜をかたどったマークに『小』の文字が左胸に書かれた半袖の上着。袖口には女子用を示すエンジ色のラインが入っている。
ボトムは僕らの頃と違って、女子も短パンのようだった。だけどそれも女子はエンジ色で男子と区別されているみたいだった。
体操服は少し汚れて懐かしい匂いを醸し出していた。だけどそれが鈴葉ちゃんの着ていたものだと思うと何故かなんの汚らしさも感じられなかった。
「今日は組み体操があったから汚れちゃったの」
鈴葉ちゃんが恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。僕は調子に乗って言い返した。
「うん、あれって膝とかが痛くて嫌だよね。私もこの間の練習の時、膝をすりむいちゃった」
「そうよね。私達女の子なのにそんな事させるなんて、小学生だと思って馬鹿にしてるわよね」
ちょっと言い過ぎたかなと思ったけど、鈴葉ちゃんがそう返事をしてくれたので僕は舞い上がってしまった。とにかく鈴葉ちゃんと同じ境遇、小学生の女の子として普通の会話が出来たのがうれしくてたまらなかったんだ。
だけどそんな幸せな気分は一瞬で吹き飛んだ。そう、ついにその瞬間がやってきてしまったんだ。
「あなた、この小学校の四年生なんかじゃないでしょ?」
鈴葉ちゃんは口元に笑みを浮かべたそう言うと、僕の目をじっと見据えたんだ。
「ど、どうしてそんな事言うの・・・あ、あたし・・・」
その震える声でもうバレバレだったと思う。只でさえ緊張でカラカラだった僕の喉は、今度は恐怖で縮み上がってしまっていた。
「うちの小学校では、組み体操は五年生からよ。それにその上履き・・・」
「こ、これが・・・・」
「そう。その上履きのラインの色が黄色でしょ。それは今年は3年生の色なの。あなた私が嘘を言ったのに、あの列の靴箱を四年生用のだって信じ込んだんじゃない?」
「そ、それは・・・慣れて・・・なくて・・・」
「ふーん。慣れて無くって、知らない子の上履きを盗んだっていうのね」
「盗んだなんて・・・」
「この学校の生徒じゃないのに、学校に忍び込んで他人の靴を無断で履いてるなんて、盗んだと一緒じゃない」
「そ、それは・・・・」
僕はもう反論する事さえ出来なかった。ただ鈴葉ちゃんの表情が穏やかだったのだけが幸いだった。
「それで、あなたどこの学校なの?桜の宮?それとも神田第二?」
その校名には聞き覚えがあった。二つともこの辺りの小学校だ。少なくともまだ小学生じゃないってばれてないとわかり、僕は少しだけ安堵した。
「あ、あの・・・さ、桜の宮小学校の・・・四年生・・・です・・・」
そしてまた僕は嘘を言ってしまったんだ。
「その・・・実はあたし・・・友達がいなくて、一人で校区外で遊んでいたら、鈴葉ちゃんがいたから・・・その・・・友達になりたくて・・・・」
後半は本当だった。演技ではなく恥ずかしそうにそう言った僕の顔を見て、彼女はいつもの天使の微笑みを返してくれた。
「そう。正直に言ってくれてありがとうね、これで安心したわ」
「う、うん・・・ごめんなさい・・・」
「でももう嘘ついちゃ駄目よ。お姉ちゃん、嘘つく子は大嫌いだからね。今度嘘ついたらたっぷりとオシオキしちゃうわよ」
そう言った鈴葉ちゃんの表情には、どこかいつもと違うものが含まれていて僕は少しだけさっきの嘘を後悔してしまった。
「じゃあ今日から放課後は、瑠花ちゃんはうちの小学校の生徒だよ。一緒の学校だから仲良く出来るよね」
鈴葉ちゃんは先ほどの笑みを取り戻してそう言った。何故学校にこだわるのかは分からなかったけど、僕は再び頷き返していた。
「じゃあ、この体操服貸してあげる」
「えっ?」
僕は最初鈴葉ちゃんが何を言っているのか分からなかった。だけど彼女は机の上に並べた体操着を手に取ると、僕に手渡して繰り返した。
「私の体操着を貸してあげるから着替えてみてよ。これを着れば同じ小学校の生徒になれるでしょ」
僕はなんとなく感動してしまった。妹の服を着てなんとなく小学生になった気分なっていた自分と、同じ学校の体操着を着て仲間になろうよと言ってくれた鈴葉ちゃん。僕たちはきっと似たもの同士なんだ。僕はあまりにも自分勝手にそんな事を思っていた。
「う、うん・・・」
僕はそれを受け取り、それから困った事を思い出した。そう、僕の下着はまだ男の子のままだったんだ。
「あ・・えっと・・・」
心から残念だったけど僕は言い訳を考えていた。
「や、やっぱり悪いよ・・・こんなの借りるなんて・・・」
「私のじゃ嫌?汚れてるから?」
「そ、そんな事は決して!」
僕は慌てて否定した。このままじゃ鈴葉ちゃんを悲しませてしまうと思い、僕は仕方無く上着を手に取った。
「じゃ、じゃあ・・・上着だけでも・・・」
鈴葉ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。手に取ると、さっきよりも彼女の香りが鼻から飛び込んでくる。半分は汗の臭いだろうに、なんて心地いいんだろう。僕は彼女に背を向けて上着を脱ぎ捨てた。
「あら、まだブラもしてないんだ」
無い胸を見られたら大変な事になる。僕は返事よりも先に鈴葉ちゃんの体操着を頭から被った。
「う、うん・・・まだ・・・あんまり大きくないから・・・」
そしてまた僕は彼女を騙していた。体操着は僕の体にぴったりで、少しだけ胸のふくらみ部分に余裕がある。鈴葉ちゃんってもう胸があるんだ。自分が上級生の胸に憧れる小さな子供になった気がして僕は少しだけ我を無くしていた。
「パンツも穿いていいのよ。遠慮しなくても」
背中越しに彼女はそう言った。だけどズボンを脱いだら、中はブリーフなのがばれてしまう。いや、それより鈴葉ちゃんの穿いていたハーフパンツを穿くなんて、もの凄く背徳的な気がして、僕はとてもそんな事が出来なかった。
「どうしたの、早く穿いてよ」
だけどそう言って鈴葉ちゃんは僕を急かした。
「う、上着だけでいいよ・・・」
「そんなのおかしいよ。罰だって言ったでしょ?」
「えっ?」
それが聞き間違いで無い事を僕はすぐに知ることになるのだった。
「どうせパンツは男物なんでしょ。ほら」
彼女は僕に体操着袋を投げつけた。無様に受け取った僕の手元から白い布きれがこぼれ落ちる。
「あっ!」
その物体を見下ろして僕は唖然とした。
「下着もそれを貸してあげる。早くブリーフなんて脱いで、それを穿いてよ。そうしたら本当に女の子同士のお友達になれるわよ」
「し、知ってたの・・・」
鈴葉ちゃんは微笑んだままだ。
「だ、駄目だよ・・・それなら余計に・・・・こんなの・・・穿けないよ・・・」
そこで彼女は初めて厳しい表情を見せた。
「駄目よ。これは嘘をついた罰・・・オシオキだって言ったでしょ」
気が付けば担任の先生に叱られた低学年の子供のように、僕は黙ってその真っ白いショーツを拾っていた。

緊張するという言葉の意味を僕は初めて知った気がした。気がつけば喉の奥はすっかり枯れ果ててしまい目の前の視界が歪んで見える。その中にぼんやりと見える綺麗な瞳が僕にもう一度語りかけた。
「女同士だから恥ずかしくないでしょ。お姉ちゃんに本当の瑠花ちゃんを見せて」
魔法に掛けられたように頷くと僕はショーツを脇の机に置いて、ズボンのボタンに手を掛けた。
「・・・ごめんね」
口から出たのはその一言だけだった。僕の手は操られるようにしてボタンを外すと静かにジッパーを下げていく。露出したブリーフを見て鈴葉ちゃんが微笑む。
「やっぱり男の子だったのね」
改めて言われると途轍もなく恥ずかしい思いがもう一度僕を包み込んだ。
「早くしないと誰かがやってくるかも知れないわよ」
そんな鈴葉ちゃんの声に脅されるように僕はズボンを脱ぎ捨てた。
穿き替えるのに邪魔な靴を脱いで靴下のまま教室に立つと、靴下の汚れなんて気にしていなかった懐かしい記憶がまた蘇る。そう、ここは小学校の教室。僕はまだ小学生でこれからプールの授業なんだ。トリップしたようになりながら僕はブリーフを下ろした。
「んふっ・・・」
声に出すか出さないかという小さな吐息が鈴葉ちゃんの小さな口から零れた。彼女の視線は当然のことながら僕の股間を見つめている。彼女は驚きもせずに少しだけ口を動かした。
「可愛いオチンチンね」
その言葉に僕の心は混乱した。鈴葉ちゃんに可愛いと言ってもらえて嬉しい僕と、二十歳間近にもなって小学生に可愛いと言われるほどの小さなペニスの情けなさに。
その笑みは僕のペニスがいわゆる「包茎」であることも知っているのよと語りかけてくるようで、悲しい事に僕のそれはますます萎縮してしまっていた。
「早く着替えないと風邪引くわよ」
まるでオネショをして母親の目の前で着替えさせられている小さな子供のように僕はショーツに手を伸ばした。
真っ白いショーツは当然ながら新品ではない。その柔らかい手触りに戸惑いながら腰のゴムを広げると、中には小さな名前を書くタグ。それにははっきりと『柏崎第三小学校 4−3 西沢 鈴葉』と書かれていた。
その時ほんの少しだけ違和感を感じた僕だったけど、そんな思いはショーツの肌触りがかき消してしまった。
頬杖をついた鈴葉ちゃんの前で鈴葉ちゃんのお下がりのショーツに足を通す。インゴムショーツが太ももを軽く締め付ける窮屈さが恥ずかしいけど心地よい。僕の小さなペニスはその女児用のショーツにすっぽりと収まることが出来てしまい、お臍の下ほどまである丈の長い下着に僕はすっかりと下半身を覆われてしまった。
「どう?女の子の肌着って気持ちいいでしょ?」
僕は曖昧に苦笑いして見せたが、鈴葉ちゃんに指摘された通り、僕はそのまるでペニスを温かい手で包まれたかのような感触にすっかりと虜になってしまっていた。
「でもね瑠花ちゃん、四年生にもなったらパンツを見られるのは恥ずかしいと思わないといけなわよ。いつどこから男の子が見ているかもしれないからね」
彼女のそんな声と同時に、窓の外から校庭で遊んでいるのであろう男子児童の大きな声が響き、僕は身を震わせて体操着のハーフパンツに手を伸ばした。
辿々しく足を絡ませながらそれを穿く僕の姿を、鈴葉ちゃんは本当のお姉さんのように見つめていた。

「じゃあ行こうか」
着替え終わった僕の手を鈴葉ちゃんは再び握った。頭のてっぺんからつま先まで小学生の姿になってしまった僕の手のひらに、鈴葉ちゃんのぬくもりが伝わる。少し俯くと胸のゼッケンには『6−2 西沢鈴葉』の文字。鈴葉ちゃんのお古の下着を穿いて、鈴葉ちゃんの体操着に身を包まれている事を思い、僕のものは少し大きくなってしまった。
鈴葉ちゃんにランドセルを背負わされ、体操着にランドセルといった運動会の帰りの小学生みたいにおかしな格好で階段を駆け下りる。もう緊張なんていうのは通り越し、僕はほとんど夢をみているようだった。
靴箱で上履きからさっき買ったばかりの運動靴に履き替えて校庭へ。懐かしい運動場は考えられないほどに狭く見え、僕の知らない真新しい遊具がいくつか設置されていた。
校庭にはまだ残って思い思いに遊んでいる子供達が十数人見える。驚いた事に鈴葉ちゃんは僕の手を引いたままその校庭に向かった。
「か、帰るんじゃないの!?」
慌ててそう尋ねた僕に鈴葉ちゃんは静かに答えた。
「瑠花ちゃんこの学校の生徒になりたいんでしょ。だったら折角だしもうちょっと遊んで行こうよ」
今更否定する事も出来ず、僕たちは校庭の隅にランドセルを置いて放課後の運動場をを楽しむ事になってしまった。
「ねえ、こんなこと出来る?」
鈴葉ちゃんは鉄棒に足を片方引っかけると、器用にくるくると回り出した。彼女が重力に逆らう度にスカートの裾から下着が見えそうになり僕を動揺させる。その様子をとても見ていられなくなった僕は彼女の隣の鉄棒に手を掛けた。
「いてっ」
だけど鈴葉ちゃんの真似をしようと片足を上げただけで間接に痛みが走った。高校卒業以来運動なんてしたことも無いから当たり前かもしれない。僕は仕方無く両手で鉄棒を掴んで前回りを試みようとした。
「わっ!」
思わず悲鳴を零してしまった。空中を一回転するのがこんなに怖いなんて思わなかった。いつのまにか大人になった僕の体はすっかりと器械運動を拒否していたんだ。
「あはは、瑠花ちゃんったら運動苦手なんだね」
コロコロと隣で鈴葉ちゃんが笑った。
「もしかして逆上がりも出来ないの?」
「できるよ、そのくらい」
十年以上も前、今と同じ様な放課後の校庭で必死に練習した想い出が蘇る。そう、当時から僕は体育が苦手だったんだ。だけど今の体格なら簡単にできる筈。僕は胸を張ってそう答えると地面を蹴り上げた。
「わぁっ!」
だけど結果は醜態を晒しただけだった。またしても一回転を拒否した僕の恐怖心は、僕のお尻を強かに地面に打ち付けてしまった。
「あいててて・・・」
お尻を押さえて顔をゆがめる僕を鈴葉ちゃんは本当に楽しそうに見ていた。
「あっ・・・ごめんなさい・・・」
不意に汚してしまったのが鈴葉ちゃんの体操着だと思い出し僕はそんな風に謝った。だけど彼女は嫌な顔一つせずに僕に言ったんだ。
「じゃあ逆上がりの練習しましょうか。お姉ちゃんが手伝ってあげる」
その言葉に僕は本当に小学校低学年の児童になった気がした。

「んっ!」
「んんっ!!」
何度も何度も僕は地面を蹴り上げて体を鉄棒に巻き付けようと頑張った。もう少しよ頑張ってと優しい声が僕を励まして、か細い腕が僕の背中を支えてくれる。
買ったばかりのスニーカーが土に汚れちゃったけど全然嫌じゃ無かった。だんだんと赤く染まっていく夕日に照らされながら、僕は鈴葉ちゃんとの二人の時をうっとりとした気持ちで味わっていたんだ。
「あー、おしい!」
でもそんな蜜月な時間は長く続かなかった。気がつけば僕たちの周りには、さっきまでボール遊びをしていた子供達が何人も集まってきてしまってたんだ。
「あっ・・・・」
急に恥ずかしくなって僕は立ちすくんだ。見れば僕よりも小さな二年生や三年生の名札を付けた子達が逆上がりの練習をしている『上級生』を見ている。彼女たちの目に僕は、四年生にもなって逆上がりの出来ない女の子に見えているに違いなかった。
「もうちょっと脇を締めた方がいいよ」
裾にフリルのついたショートパンツを穿いた娘が、自分の手を差し出して僕にアドバイスをくれた。ちょっとだけ生意気な奴なんて思っちゃったけど、隣でいとも簡単に見本を見せられてはそんな気分も吹っ飛んでしまった。そう自分は逆上がりも満足に出来ない駄目な子供だって再認識させられてしまったんだ。
「じゃああなたも手伝ってくれる?」
鈴葉ちゃんの言葉に女の子は元気よく返事を返した。僕は否応なく、二人の女の子に支えられながらもう一度地面を蹴り上げた。
「あっ!」
今度は簡単だった。きっと鈴葉ちゃんだけでは僕の体を持ち上げるのは難しかったに違いない。二人の手に浮かされた僕の体はくるっと鉄棒を一回転してしまった。
「できたよっ!」
僕は思わず鈴葉ちゃんに向かってそう叫んでしまった。だけど「よかったね」という声をショートパンツの女の子に言われ急に照れくさくなってしまった。ましてやその声に呼応するように、たくさんの子供達が僕に向かって拍手をしたから尚更だった。
「今度は一人で出来るようにならないとね」
女の子にそう言われ、ますますどうしていいか分からなくなった時、校庭に幼い声の学校放送が聞こえたんだ。
「五時になりました。まだ校内に残っている人は車に気を付けておうちへ帰りましょう」
続けて懐かしい童謡が鳴り響く。しばらくはそれに聴き惚れていた僕だったが、大変な事に気がついてしまった。
「ね、ねぇ!早く教室に戻って着替えないと!」
そう言った僕に対して鈴葉ちゃんは事も無げに言い返した。
「いいじゃない、その格好で帰れば。私のお家に寄って着替えればいいよ」
そうして僕は体操着に赤いランドセルという、この上なく目立つ小学生ルックで下校する事になってしまったんだ。

日が暮れようとしている夕方の街角は、ついさっきまでとは比べものにならないくらいの賑わいを見せていた。
学校帰りの中高生達。買い物袋を下げた主婦や仕事帰りの若いOL達。皆が忙しそうに早足で過ぎていくが、その全ての目が僕の姿を捉えているように感じられた。
遠くで中学生が僕たちを指さしているのが見える。あれは確か瑠花と同じ学校の制服に違いない。体操着に赤いランドセルを背負った姿が奇異に見えるのは仕方ないけど、いったい彼女たちには僕がどんな風に見えているのか気になって仕方無かった。
「こっちよ」
鈴葉ちゃんは相変わらず姉のように僕の手を引く。彼女の目を惹く容姿が更に人々の注目を集めているのには違いなかったが、僕は顔を隠すようにしてついていくしか無かった。
公園の角を曲がり、僕の家とは反対の方へ向かう。あまり遅くなると帰宅しにくくなってしまうが、その時はそんな事さえ考えられなかった。まるで地に足のついていない不思議な感覚を、足首を優しく包み込む女の子用のスニーカーに感じながら、僕は鈴葉ちゃんの家の前に立っていたんだ。
「うわぁ」
そんな小学生みないな感想が自然に口から零れた。『西沢』と大きな表札の出たその建物は、個人宅としてこれ以上ないくらいの偉容を誇っていたからだ。
「ただいまー」
鈴葉ちゃんに連れられて、僕はその場違いの場所に足を踏み入れた。メイドさんか執事が出迎えてもおかしくないといった雰囲気の中、廊下の右側の扉から現れたのは意外にも家庭的な女性だった。
「おかえりなさい。あら、お友達?」
その女性が鈴葉ちゃんのママだというのは一目で分かった。形の良い大きな瞳が彼女に生き写しだったからだ。
「あらあら、おてんばしてきたのね」
廊下の照明に照らされた虹彩が僕の姿を一通り観察し、鈴葉ちゃんにどこか似た優しい声が静かな廊下に響く。そう言われて僕はようやく鈴葉ちゃんの体操着を借りていた事を思い出した。
「あっ・・・こ、これっ・・・」
お礼を言おうと思ったけど緊張で声が出なかった。僕の本当の年齢と性別を考えてみれば、悲鳴を上げられて追い出されても仕方が無い状況なのだ。今考えると白々しく立っていただけでも驚嘆に値するかもしれない。
「お洋服汚しちゃったのね。洗ってあげるからとりあえず上がってね」
だけど鈴葉ちゃんのママは叱りもせずに僕を家の中に手招きした。
「お名前は?」
震える手でスニーカーを脱ぐ僕の頭からそんな声が聞こえ、僕は罪悪感から聞かれてもいない返事をした。
「そ、園咲瑠花ですっ!よ、四年生で、あ、あのっ、す、鈴葉ちゃんにはいつもお世話にっ・・・なってますっ・・・」
それは小学四年生にしてはおかしすぎる自己紹介だっただろう。言い過ぎたと思って青ざめた僕だったけど、返ってきたのは笑い混じりの暖かい声だった。
「まあまあ、礼儀正しいお嬢ちゃん。瑠花ちゃんっていうの?可愛い名前ね」
真っ赤になった僕の足下に、ウサギのイラストの描かれた子供用の室内履きが差し出された。

「さっ、入って」
ぺたぺたと長い廊下を歩き、モデルルームのように生活感のない階段を上がった先が鈴葉ちゃんの部屋だった。栗色をした扉には「すずはのお部屋」と手書きの文字が書かれたプレートが下がっている。それは僕がイメージする小学生の女の子の部屋そのものだった。
「うわぁ」
中に通された僕の口から勝手にそんな言葉が零れた。
高い天井からは優しい光が降り注ぎ部屋中を温かく照らしている。その成分が仄かに愛らしく見えるのは壁紙が薄い桃色のせいだろう。
入って正面にはお姫様の部屋のようなカーテンのついた大きな扉。女の子の部屋らしく窓際には小さな観葉植物がちょこんと置いてある。左手の壁は今風に一面クローゼットのようだった。鈴葉ちゃんはその扉の一つを開き、ランドセルをしまって制帽を帽子掛けに掛ける。
扉があるのと同じ壁には、本棚と勉強机が置かれている。たくさんの児童書と少しの少女コミック。子供向けの辞書に教科書と参考書。その中には中学生が使うような英和辞典も含まれていたから僕は感心してこう言ってしまった。
「すっごい。鈴葉ちゃんって英語も勉強してるんだね」
「うん、今年から学校の授業もあるから」
軽はずみな言葉をまた僕は後悔した。そういえば小学生から英語の授業が必須になるとかニュースで見た気がする。
「あっ、そ、そうだよね・・・あたしも・・・その・・・」
口ごもる僕に対して鈴葉ちゃんは微笑を浮かべた。
「そうよ。瑠花ちゃんだって来年からはお勉強しないといけないんだからね」
どうやら英語の授業は5年生かららしい。僕は胸を撫で下ろして、手持ちぶさたの腕をその辞書に伸ばした。
「む、むつかしいね。全然わかんないや」
4年生らしく演技をする。だけどその使い古された英和辞典は、英語の苦手な僕にとっては実際に簡単なものなんかでは無かった。
「それあげるよ」
不意に鈴葉ちゃんがそう言った。
「で、でも・・・」
「もう私その辞書じゃちょっと物足りないから。だって載ってない単語とか多いしね」
僕の手から辞書を奪い取ると彼女はそれをぱらぱらと捲って見せた。
「今度ママに新しいのを買ってもらうって約束もしてるんだ。だからこの辞書は瑠花ちゃんにあげる。来年からはこれを使って頑張って英語のお勉強をするんだぞ」
まるで家庭教師みたいにそう言うと、彼女は再び僕にそれを突き返した。
僕がこれを・・・この鈴葉ちゃんのお古の辞書を使って英語の勉強をする。本当は二十歳前の僕が、小学生のお古の教材で勉強するんだ。そう考えただけでなんだか恥ずかしくて胸がむずがゆくて・・・。
「ありがとう、あたしこれで頑張ってお勉強するね」
僕は半ば心から鈴葉ちゃんにそうお礼を言った。手に持ったそれが何故そんなに使い古されているのかなんて考えもせずに・・・。

「あらあら、まだ着替えていなかったの?」
その時ノックの音と共に部屋の扉が開き僕は肝を冷やした。
「お菓子持ってきたけど、きちんと着替えて手を洗ってから食べるのよ」
鈴葉ちゃんのママはそう言って、部屋の中央のテーブルにお盆を乗せた。高級そうなカップとティーポット。まるで来客があるのを予想していたかのように脇にはショートケーキまで添えられている。甘い物に目のない僕はそれを見て恥ずかしい事にお腹を鳴らせてしまった。
「まあ、瑠花ちゃんったら、お腹が空いているのね」
鈴葉ちゃんのママが口に手を当てて上品に笑った。僕も自然に頬に手を当てて、照れた女の子のようになっていた。でも自分の立場を完全に忘れていた僕に、優しい声が胸に突き刺さったんだ。
「けど食べるのは着替えてからね。体操服洗濯するから脱いでくれるかしら」
部屋の奥の姿見には、汚れた体操着に身を包んだ自分の姿がはっきりと見て取れた。小学生としてはこの場で脱ぐのが正解なんだろうけど、その時の僕は下着まで鈴葉ちゃんのお古を穿いていたんだ。しかもその中には女の子にはあり得ない物まで隠して・・・。
助けを求めて僕は鈴葉ちゃんの方に振り向いた。
彼女はたった一言「気にしないでここで脱げばいいよ」そう言ってシンメトリーな顔を少しだけ歪ませて笑った。

「脱いでいいのよ」
「脱ぎなよ」
二人の女性に責め立てられるようにされ、僕はとうとう体操服のズボンに手を掛けた。これ以上拒否していたら逆に怪しまれるかもしれないし、もうどうにでもなれという心境にもなっていた。
後ろを向いて上着を脱ぎ捨てる。自分の汗と鈴葉ちゃんの匂いが仄かに香る。
それから厚手の生地に包まれたゴムを引っ張ってエンジ色のズボンを膝まで下ろす。
鈴葉ちゃんに借りたショーツを穿いた僕を、鈴葉ちゃんのママはニコニコと微笑んだまま見つめている。
息が詰まりそうだった。男の子だって知られたらどうしようとそればかり考えていた。でも幸いな事にショーツは真っ白のだったから、彼女のだって気付かれる事は無いはずだった。僕はそう信じて、脱いだ体操着を手に取った。
「ありがとうございます」
空いた方の手でどちらを隠そうかと迷ったけど、左手で股間を押さえながら僕は鈴葉ちゃんのママに体操着を渡した。
その時クスリと鈴葉ちゃんのママが笑った。その目はしっかりと僕の胸を捕らえている。やっぱり胸を隠した方が自然だったのかなと後悔し始めたとき、鈴葉ちゃんの声が背中から響いた。
「ママ、あんまり見つめるから瑠花ちゃんが恥ずかしがってるじゃない」
「まあまあ、ごめんなさい。あんまり瑠花ちゃんが可愛いから、つい見とれちゃったの」
鈴葉ちゃんのママはそう言うと、少し前屈みになって僕に話しかけた。
「四年生にしてはぺっちゃんこね。ちゃんと給食食べてる?」
「あっ!はっ・・・・はいっ・・・・ひゃっ!!」
心から驚いた。僕は柔らかい手で胸を包まれて、思わずそんな悲鳴を漏らしてしまったんだ。
「だ、だめですっ!!」
訳の分からない言葉を口にして僕は両手で胸を隠した。四年生ならぺったんこでも大丈夫かと思ったけど最近はそうでもないらしい。
「でもね、女の子なんだからきちんと下着はつけないといけないわよ」
鈴葉ちゃんのママは僕に言い聞かせるように続けた。
「まだ成長してなくっても、女の子は胸を大切にしなくちゃね」
それからママは僕の肩越しに鈴葉ちゃんに声を掛けた。
「鈴葉、瑠花ちゃんに着替え貸してあげなさい。下着も忘れないでね」
「えっ!?あっ・・い、いいですっ!自分の服も持ってますから!」
これ以上着替えさせられるのはゴメンだった。だけど慌ててそれを拒否した僕に、鈴葉ちゃんのママは信じられないような言葉を突きつけた。
「あら、今でも鈴葉のお下がりのパンツを穿いてる癖に今更恥ずかしいの?まさかこのまますんなりとお家に帰してもらえるなんて思ってないわよね」
頭から血の気がどっと音を立てて引いた。
「そうね。まずは普段着から試着してみようか」
鈴葉ちゃんがクローゼットから取り出したのは、胸に大きなリボン柄の描かれた長袖Tシャツに、淡いピンク色をしたボリュームのあるミニスカートだった。
こうして僕は二人の着せ替え人形という名のおもちゃにされちゃったんだ。

「まずは体を綺麗にしようか」
「あっ!」
僕の右手を鈴葉ちゃんのママが、左手を鈴葉ちゃんが掴んだ。まるで打ち合わせをしていたかのように。
パンツ一枚の僕は鈴葉ちゃんの部屋を連れ出される。見知らぬ廊下にそんな姿でいるなんてまるで夢を見ているようだった。だけど夢でない証拠に両の手首は容赦なく締め付けられる。
「ちょ、ちょっと・・・」
二人は顔を見合わせながら、大きなお家の奥に僕の体を引っ張っていく。踏ん張って抵抗しようとしてもよく磨かれた廊下はそれを許さず、僕は引きずられるようにして一番奥にまで連れてこられてしまった。
「パンツはここに入れておいてね。着替えは入っている間においておくから」
鈴葉ちゃんのママが脱衣所のあちこちを指さして言う。
「お湯はこの赤い方のを廻せば出るから。ボディソープはこれ、シャンプーはここね。ボディスポンジは鈴葉のを借りればいいから」
そうやって否応無く僕は脱衣所に押し込まれてしまった。生活感の無いまるでホテルのようなシャワールームは更に僕に現実感を失わせ、言われるままにパンツを脱ぐとそっと指定された場所に隠すように置いておく。
脱衣所を出てシャワールームに入り蛇口を拈る。お湯は調整しなくても心地よい温度で汚れきった体を洗い流してくれた。紙を触ってみるとべたべたとしていたので頭からシャワーを被る。教えられたシャンプーを手のひらに一押し分出すと、ほのかに鈴葉ちゃんの匂いがした。
鈴葉ちゃんのだというピンク色のスポンジにボディーソープを取る。ゆっくりと泡立てて体を擦るそれが、いつも鈴葉ちゃんの素肌に触れているものだと考えると、とても恥ずかしくて、それでも嬉しい気分になった。
少し躊躇したあと股間にそれを這わせる。こんな事をしたら鈴葉ちゃんに嫌われてしまう、だって僕女の子なのに・・・。そんな事を思っていたら知らない間に僕のそれは少し大きくなってしまっていた。
「どう?綺麗になった?」
その時浴室の扉を開けられた僕は、突然の出来事に前を隠す事も忘れて二人の顔を見上げていた。
「心配しなくていいのよ。まあ、思った通り可愛いオチンチンね」
鈴葉ちゃんのママは驚きもせずに僕の股間を見て笑った。その手には剃刀が握られていた。
「じゃあ足を開いて座ってくれる?」
まるでそれが予定されていた事のように僕に指示をすると、鈴葉ちゃんのママは広い浴室に僕を押し倒す。明るいライトに照らされた剃刀がその切れ味を示すように光って、僕はすっかりと恐怖に怯えてしまっていた。
「動くと危ないわよ」
鈴葉ちゃんが僕の両足を固定し、躊躇無く剃刀が僕の股間に触れる。
「や・・・やめて・・・・」
一体どうするつもりなのか、この時点では僕には何も分かっていなかった。だけど鈴葉ちゃんのママは髭でもそり落とす様に、僕の股間に剃刀を滑らしていく。
「あっ・・・あぁっ・・・・」
なけなしにしか生えていない僕の陰毛がボディソープの泡と共にそり落とされていく。僕の僅かにしか無い大人の証がシャワーの水と共に排水溝に流れていく。
気が付けば僕の股間はすっかりと子供の時のままに戻ってしまっていた。
「ほら、小学生らしいオチンチンになったわよ」
「そうね。まだ全然剥けていないところがいいわね。女の子だから出来ればそんなもの無いほうがいいんだけど、それは今後のお楽しみにしようか」
鈴葉ちゃんのママはそう言って僕の小さくなったオチンチンを指で弾いて見せた。
「さっ、濡れたままじゃ風邪引くわよ」
再び脱衣所に戻された僕の体を、二人が寄ってたかって拭いていく。チラリと見れば手に持っているのはアニメキャラの描かれた可愛らしいバスタオルだ。
「ああ、これ?」
僕の視線に気が付いた鈴葉ちゃんがそのタオルを広げる。
「これね、低学年の時にプールで使っていたやつなんだよ」
そのキャラクターは確かに見覚えがあった。確か妹がまだ小学生だった時に見ていたアニメのシリーズに違いない。
「ほらね」
タオルの橋の部分には消えかかった文字で『2−2にしざわすずは』と書かれていた。
「とっておいて良かったわね。こうしてまた使ってもらえるなんて、タオルも幸せだわ」
鈴葉ちゃんのママがそんな風に言った言葉はただただ恥ずかしくて、その時の僕にはその真の意味が理解出来ていなかったんだ。
「さっぱりしたでしょ」
二人は声を揃えてそう言うと、僕の前に柔らかそうな下着を差し出した。僕にはもう勘違いも間違いようもない、それは小さな女の子向けの下着だった。
「これも鈴葉のお古で悪いけど、鈴羽ちゃんにぴったりでしょ」
鈴葉ちゃんのままは何でもないように僕の本名を呼んだ。僕は恥ずかしい事にその事実にしばらく気が付かず、黙ってその下着を受け取ってしまった。
「ピアニッシモの『ブラはつたいけん』セットよ。鈴羽ちゃん初めてだからぴったりでしょ?」
再度そう言われ、僕は驚いたというよりも恐怖にペニスを縮こませてしまった。いったい何故鈴葉ちゃんのママはそこまで知っているのだろう。
「一人でつけられる?」
だけどその訳を聞くことも勇気の無い僕には出来なかった。いや、本当は逃げ出したくなんかなかったのかもしれない。僕はコクリと頷くと、そのショーツを足に通していく。
さすがにブランドものの下着だ。穿き心地はさっきまでのショーツよりもさらに柔らかい。さすがにサイズは少し小さかったものの、フロントに可愛らしいキャラクターの描かれたそのショーツは、深い穿きの為もあって僕のオチンチンをすっかりと包み込んでしまった。
問題はブラの方だった。一人でつけれると言ったけれど、当然ながら僕はそんなも手に取った事も無かった。
見ればショーツとおそろいのキャラクターがワンポイントにプリントされているそのブラは、胸をつつむ部分は僅かに膨れているだけで、僕の知っているブラジャーのように背中で留めるホックもついていなかった。後で知ったところによると、それはファーストブラという胸が膨らみ始めた小中学生の女の子が初めてつける為のブラジャーのようで、装着しやすく、また敏感な肌を傷つけにくく出来ているんだそうだった。だけどその時の僕にその知識が無くて良かったと思う。だってそんな事を知っていればとてもそれを身につけるなんて恥ずかしくて出来なかったんだもん。
「鈴羽ちゃんったら、可愛いわね」
鈴葉ちゃんまでもが僕の本当の名前を呼び、からかうように笑った。初めてのブラに悪戦苦闘する僕の姿は確かにこっけいだっただろう。
もつれるストラップに必死に手を通す僕。その紐のねじれを直してくれる鈴葉ちゃんの指が背中に触れ、僕をおかしな気分にさせていく。
初めてつけたブラは、直接的な意味と間接的な意味の両方で僕の心を更に締め付けるようだった。
「どう、ブラ初体験は?」
鈴葉ちゃんに無理矢理鏡を見せつけられる。胸の無い僕にはブラなんて似合うはずもないと思ったけど、あまり膨らんでない胸の為に造られたファーストブラは思ったより僕の貧弱すぎる体には似合っていた。
だけどその下を見下ろせば、可愛すぎるショーツに少し膨らんだ股間。折角の可愛らしいフロントプリントを盛り上がらせている事を僕は申し訳なく感じてしまっていた。
「じゃあとりあえず、これ着ていてくれる」
渡されたのは今度は上着。色とりどりのキャラクターとケーキの絵がたっぷりとプリントされたピンク色のTシャツ。それが下着と同じ『ピアニッシモ』のブランドだということはもう僕にもすぐに理解できた。背中の部分にも『I AM P’GIRL』と書かれていて、それが小さな女の子用の衣装なんだと僕に自覚させる。
「さっ、もうそろそろ慣れたでしょ?」
女の子の服に。という言葉をわざわざ省略して鈴葉ちゃんが言った。だけどそう簡単に慣れる筈なんて無かった。ましてやそれは僕みたいに二十歳前の男の子が着るには、幼すぎて恥ずかしすぎる服装だったんだから。
だけど僕はその言葉に否定も肯定もせずにTシャツを受け取ると、それに腕を通していく。頭を通すとき、洗い立ての洗濯物の香りがして僕の心臓をドキドキ言わせた。
Tシャツは今時の子供用らしくてかなり細身だったけど、華奢な僕には全然窮屈では無かった。似合ってるわよという目つきで見ている二人の目を気にしながら、Tシャツの裾を整える。裾の長さは思ったよりも短く、お臍をやっと隠すくらいしかない。これじゃあズボンの丈が足りるかなと僕は心配した。
だけどそんな心配は杞憂に終わったんだ。だって僕が穿く為に、用意されていたのはズボンなんかじゃ無くって、たっぷりとしたフレアーをなびかせた桃色のミニスカートだったから。

「えっ?」
本当のところ少しくらいは予想出来ていたに違いなかったけど、僕は自然にそんな言葉を呟いた。
「穿きたかったんでしょ」
そんな僕の心を見透かすように鈴葉ちゃんが微笑む。そんな事無いと言いかけた僕の声に被せるように彼女はもう一度繰り返した。
「ずっと穿きたかったんでしょ。女の子の穿くスカートが」
「そんな事……」
僕の声はそこで止まり、長い沈黙の時間が訪れた。換気扇の回る音、浴室からの湿った空気が過敏な程に伝わってくる。それは僕にとって大切な一線だった。女の子のパンツまで穿いておいて今更って思われるかもしれないけど、その時の僕にとっては本当に大変な境界線だったんだ。
「……だって」
僕はようやくそう声に出した。そしてそれは僕という男の子にとって最後の意思表示に違いなかった。
「だって僕は男の子なのに」
鈴葉ちゃんのママを気にしながらも僕は大きな声でそう言い切った。恐らく二人はそんな僕を説得するのだろう。さっきまでみたいに僕を女の子扱いして、女の子の癖にスカート穿くなんて当たり前でしょう、なんて言うんだろう。
だけど僕のそんな予想は見事に覆されてしまった。
「穿きなさい、鈴羽」
鈴羽ちゃんは、まるで僕の本当のお姉さんか先生のように厳しい口調でそう言ったんだ。
「う、うんっ……」
思いもしなかった言葉に僕はビクリとしてそう返事をした。
「良い子ね。穿き方分かる?」
スカートの穿き方なんて分からない筈も無い。僕は素直に頷いて鈴羽ちゃんからスカートを受け取る。
思った以上に柔らかい生地は僕の心臓をドキドキさせる。ウェスト部分にはギャザーが出来ていて、中には太めのゴムが入っているみたいだった。脱ぎ着がしやすい子供用のスカートだってくらいは僕にも想像がついた。
裾に刺繍された筆記体の『Pianissimo』の文字と、ウサギに似たキャラクターのプリントがそこが前だって僕に教えてくれる。瑠花の制服みたいにサイドにファスナーもホックも付いていない本当に小さな子供用のスカートだった。
両手でウェストゴムの部分を持って足元に持って行く。少しだけその輪っかを広げて右足を通すと、とんでもない事をしているという罪悪感が一気に押し寄せた。
だけど上目遣いに鈴羽ちゃんを見ると、相変わらずの憎らしいほど屈託の無い笑顔が僕を見つめていた。そんな目で見られている僕の小さな道徳心などは吹っ飛んでしまう。僕は左足もその布製の輪っかの中に通してしまった。
ウェストを押し広げながら腰にまでスカートを引っ張り上げていく。お風呂上がりの素足に柔らかい生地があたる感覚が恥ずかしい。一体どこまで引き上げればいいのだろう。普段ズボンの腰にあたる場所まで持ってきたけど、Tシャツの長さが全然足りなかった。
「鈴羽ちゃん、スカートはもっと腰の高い部分で穿くんだよ」
鈴葉ちゃんがそう教えてくれた。僕は思いきってシャツの裾のあたりまでスカートを引き上げて、ゆっくりと手を離した。
「ぁっ……」
ウェストを軽く締め付けるゴムと、太股にふわふわとまとわりつくフレアーの感触に僕は恍惚とした声を漏らしてしまった。
とうとうスカートを穿いてしまった。僕は男の子なのに今スカートを穿いている。しかも年下の女の子の前で、その子のお古のスカートを穿いているんだ。
とんでもない事をしているという罪の意識と恥ずかしさで僕の足の震えは止まらなかった。
「ほら、ギャザー直して」
そんな僕に優しい声でそう言って、鈴葉ちゃんがウェストに手を伸ばす。
「ウェストゴムのスカートって、穿いてから整えないとギャザーが偏るからね」
そう言って鈴葉ちゃんは僕のスカートを調整してくれた。みるみる間に不格好だったフレアーが綺麗な円形になっていき、僕のお尻を可愛らしくコーディングしていくかのようだった。
「じゃあ髪の毛を乾かしましょうか」
すっかり女の子の姿になった僕を鈴葉ちゃんのママはドレッサーの前に立たせた。男の子にしては長い僕の前髪は、濡れているせいで余計の女の子っぽく見える。その湿った髪を優しく纏めながら、鈴葉ちゃんのママはドライヤーの風をゆっくりとあててくれた。
お風呂上がりの体にその風は心地よい。何故だろう、当たり前だけど小さい頃から男の子だった僕は本当の母親にこんな事をされた記憶は無いのに嫌に懐かしい気分がする。
「鈴羽の髪ったら本当に細くて綺麗ね」
そう言われて僕はようやく思い当たった。それは僕の記憶では無く瑠花の記憶だ。僕がまだ小学生の頃、母親に同じ事をされている瑠花を僕は見ていた。
鈴葉ちゃんのママが僕の髪を優しく撫でる。背中からは鈴葉ちゃんが見守ってくれている。なんの心配も不安も無い安らかな時間。僕は只二人に体を預けて自分が何者であるのかも忘れていた。
「少しおしゃれしてみる?」
ママはそう言って、ドレッサーの引き出しを引いた。中には綺麗な色の沢山のヘアアクセサリー。昔、瑠花がまだ女の子らしかった時の光景がまた蘇る。どれがいいかしらと問われて、僕は迷うことなく妹が以前お気に入りにしていた、ピンクとイエローの丸い飾りがついたヘアゴムを指さしていた。
「そう、これがいいのね」
ママは不思議がる事も無くそれを手に取ると、僕の右側の頭頂部の髪を指で纏めていく。慣れた手つきでそこにヘアゴムを巻き付けると、あっという間に僕の髪はちょこんとサイドテールっぽくされてしまった。もちろん髪の長さが全然足りなくてちんちくりんだったけど、その姿がまだ髪の短かった時の瑠花と重なって、僕はすっかりと満足してしまっていた。
「こっちは自分で着けてみる?」
そう問われて僕は当然の様に頷いた。ヘアゴムは一組二個あったから、当然髪の両サイドにつけるのだろう。いわゆるツインテールって奴だけど、長さが足りないからどう見ても母親に無理矢理可愛くされている幼児にしか見えないかもしれない。
僕はヘアゴムを手に取ると、おっかなびっくりと左サイドの髪を見よう見まねで束ねていく。だけどママの手つきを思い出し、そこにヘアゴムを巻き付けようとしたけど、当然ながら全然上手くいかなかった。
「まだやっぱり難しいみたいね」
ママはそう微笑むと僕の手を誘導するように髪の束ね方を優しく教えてくれた。
「女の子なんだから、これくらい一人で出来ないとだめよ」
ママに言われるままに左手で髪を掴む。さっきと違って頭の中心部にまっすぐ綺麗な地肌が見えている。清楚なヘアスタイルでいながらポップなアクセが子供らしくてとっても可愛らしい。ママにしてもらった右側よりはちょと不格好だけど、鏡の中にはきちんとおしゃれをした女の子が不思議な表情でこちらを見ていた。
「はいできあがり。もうどこに出しても恥ずかしくない小学生の女の子ね」
そう言われて僕はやっと自分が大人といってもおかしくない年齢の男の子だって思い出した。同時に鏡の中の少女も少し赤くなる。縛った髪は少しゴムに引っ張られて痛かったけど、その痛みさえも新鮮だった。

それからママと鈴葉ちゃんに連れられてリビングに行った。二十畳はあるかという広いリビング。だけど何故か初めての気がしない。いや、初めてなんだけど驚いたという振りをするのが躊躇われた。だってここは僕の家なんだから。
四人がけのテーブルに座ると、ママがホットミルクを入れてくれた。鈴葉ちゃんとママは紅茶だけど、僕は眠れなくなると困るからねとプラスティック製の容器に入れられた牛乳を飲む。これもどこかで見た光景。言うまでも無く僕が鈴葉ちゃんの立場で見ていた母親と瑠花との団欒だった。
鈴葉ちゃんが今日学校であった出来事をママに話している。まだ分数の割り算が出来ない子がいるとか、高学年ってすごく難しいお勉強するんだなって思っている自分を想像してみる。ホットミルクに体が暖められ、少し眠くなった瞬間僕にママが話しかけた。
「鈴葉は今日、小学校どうだった?」
「えっ?」
あまりに自然に言われ、僕は一瞬戸惑った。
あれ、今日僕は小学校に行ったんだっけ・・・・・・
行ったには違いない。でも僕はもうとっくに高校も卒業した筈なのにどうして小学校になんか・・・・・・
「あのね、今日体育で鉄棒をしたんだよ」
だけど知らない間に僕はそんな台詞を口走っていた。それが欺瞞だと心の底では気が付いていたんだと思う。だけどその時の幸せな時間を嘘でもいいからもう少し続けたいんだと僕は願っていたんだと思う。
「それでね、逆上がりをしたんだけど、なかなか出来無くって。でもみんなに手伝ってもらって最後には廻れたんだよ」
何故か言葉まで辿々しくなっているのがおかしかった。だけどママはそんな僕を笑いもせずに頭を撫でてくれた。
「そう良かったわね。お友達にお礼は言えた?」
「うん!」
僕は元気よくそう言って頷いた。そう、運動が出来なくても女の子なら叱られる事も無いのだ。昔跳び箱の四段も飛べなくて、男の子の癖に駄目ねと笑われた記憶は誰のものだったっけ。
しばらくするとママは夕飯のお買い物に出かけて行った。一緒に付いてくるって聞かれたけど、僕らはお家で遊んでいると答えた。いま考えるとさすがにそこまでの勇気は無かったのかもしれない。
それから鈴葉ちゃんと、お姉ちゃんとなんでもない話をした。学校で流行っている少女向けマンガの事。小学生向けファッションブランドの事。意地悪な男の子とちょっと素敵なクラスの男子の事。そのどれもがとりとめも無い話題だったけど僕には新鮮すぎる話ばっかりだった。

夢のような時間がどれくらい流れたのだろう。ようやくスースーする下半身や太ももにまとわりつくスカートの感触に慣れた頃、玄関のチャイムが鳴った。
「あれ、ママかな?」
一瞬ドキリとした僕はお姉ちゃんのその言葉にホッとした。自分の家のチャイムをならすなんて変だけど、それぞれのお家の習慣はそれぞれだ。僕はお姉ちゃんの後を追って、玄関までママを迎えに行った。
「ただいま」
だけど僕はそこに立っている人達を見て悲鳴混じりの声を上げてしまった。
「ただいま。丁度そこで会ったから一緒に帰ってきたの」
幸せだった時間があっという間に崩れ去っていく。小さな女の子だった自分が崩壊していく。どうしてこんな馬鹿なことをしていたんだという後悔だけが頭の中をくるくると回る。だけどもう逃げも隠れもできなかった。
「ただいま、二人とも賢くお留守番してた?」
ママとその側に立った少女、僕の妹だった筈の瑠花はこちらに向かってニヤリと微笑み掛けた。
「ど・・・どうして・・・・・・」
どうして鈴葉ちゃんのママと瑠花が一緒なのか。どうして瑠花がこの家に「ただいま」と言って帰って来たのか。どうして瑠花は僕の姿を見て驚かないのか。頭の中に疑問が溢れ出る。だけどそんな僕の疑問を無視するように瑠花は靴を脱いで玄関に上がった。
「部活疲れちゃったよ」
いつものように自分の肩を揉む仕草をするのは瑠花そのままだった。
「お姉ちゃんババくさいよ」
だけど本当の姉妹そのままに言う鈴葉ちゃんの姿が僕を戸惑わせる。
「洗濯物はすぐに出しておいてよ」
ママまでもが違和感無く瑠花を家族の一員に思っている。
ひょっとして僕はどこか別世界に紛れ込んだんだろうか。みんなは本当に家族で、もしかして僕も本当に三姉妹の末娘なんじゃないだろうか。
「違う・・・やっぱり違う・・・・・・」
だけど僕はそんな妄想一瞬で振り払わなければならなかった。なぜならスカートの中に手を入れて触れた僕の股間には、しっかりと男の子のものがついていたんだから。

「はいはい」
僕の覚醒を促すように瑠花はそう返事をして靴を脱いだ。少しテカリのあり制服のプリーツスカートがふわりと揺れ、僕の知っている汗混じりの匂いが鼻につく。鈴葉ちゃんがそれを指摘して、お姉ちゃんシャワー浴びてきなよと鼻を摘んだ。
「練習大変なんだから仕方ないだろ」
瑠花は重そうな部活用の鞄を廊下に投げ捨てるように置く。『KBC〜柏崎中学バスケットボールクラブ〜』のロゴがプリントされた大きな鞄は僕もよく知っているものに間違い無かった。
「鈴葉も来年はバスケ部に入りなよ」
「やだよ、お姉ちゃんと同じクラブなんて」
「なんだよ、びしびししごいてやろうと思ってるのに」
二人は全く不自然なく会話を重ねる。傍に立っている僕はどうしていいのかさえ分からなかった。その時
「鈴羽はバスケするんだよな。せっかく背が高いのにもったいないもんな」
瑠花が僕の方を向いてそう言った。鈴葉と鈴羽。読み方は一緒だけど、その呼び方が僕を指していることが何故かはっきりと分かった。
「そ・・・その・・・・・・」
「まだ四年生なのに、この身長だもんな。将来有望だぞ」
瑠花が戸惑う僕の頭に手を載せて言った。数年前「お兄ちゃんの背を越したもんね」と笑った彼女の姿が僕の中に蘇った。
「ダメだよ、鈴羽は私と同じ女の子してるのが好きなんだから。中学校では一緒にバトン部に入るんだもんね」
鈴羽ちゃんが僕の顔を覗き込みながら言う。
「私が三年生になる時には鈴羽は一年生だね。一緒に中学校通うの楽しみだな」
まるでそれが現実であるかのように口を指にあてて鈴羽ちゃんはうっとりとする。すると僕の頭の中にも二人で制服を着て、もちろん学ランなんかじゃなく、今瑠花が着ているセーラー服を二人で着て懐かしい中学校へ登校する姿が浮かんでしまった。
中学校にもう一度・・・・・・女の子として・・・・・・。
僕は思わず頬を赤めてしまった。
「なんだよ、二人だけ仲良しさんして。まあでも鈴羽にはバトン部は似合うかもな」
瑠花が改めるようにして僕の姿を見下ろした。頭をヘアゴムで結わえ、桃色のTシャツとスカートを穿いた僕の姿を。Tシャツは薄いから、きっとファーストブラをしている事気付かれているに違いない。だとすると女の子のショーツを穿いている事さえも。
実の妹の前で僕はなんて姿をしているのだろう。望んでした事ではないにしろ、自分の置かれている立場に僕は今更ながら身震いした。
「うん、バトン部のユニフォームって可愛いでしょ。私達はあれを着てお姉ちゃんを応援してあげるよ」
屈託無く笑う鈴葉ちゃんだったけど、僕の脳内にはまたもやひらひらしたミニスカートの衣装を着てバトンを回しながら瑠花を応援する自分の姿が再生されてしまった。
「じゃあお嬢さん達に臭い匂いを移しちゃ悪いからシャワー浴びてくるよ」
瑠花はそう言うと、まるで自分の家であるかのようにさっき僕の入った浴室へ向かって行った。そしてあっけにとられたままその後ろ姿を見ていた僕は、少しだけ我に帰って小声で二人にこう聞いたんだ。
「ね、ねぇっ、これってどういうことなの!?」
だけど二人は不思議そうに顔を見合わせ、それから僕の眼をじっと見つめた。
「変なこと言う子ね。お姉ちゃんはいっつもあんな調子じゃない」
二人揃ってそう言ったのがちょっぴり不自然だったけど、その言葉は僕を益々混乱させるのに十分だった。
「それよりさぁ」
たたみかけるようにママが言う。
「バトン部って言えば、鈴葉が以前着た衣装があったんじゃない?」
「あっ!町のパレードて着たやつだっけ?」
「そうそう、あれを着てみせてお姉ちゃんを驚かせようよ」
意味不明の会話が交わされるのを僕は相変わらず聞いているしか無かった。
「ほら鈴羽」
再び僕の手を可愛い手がつかみ、否応なく二階へ連れ去られる。
「あのときは自分も着たいって言って大変だったよね。まだ二年生だから無理だって言ったのに聞かなくてさ」
そう言いながら鈴葉ちゃんはクローゼットの奥から綺麗な箱に包まれた一組の衣装を取り出した。
「ほら、まだ綺麗なまま保管できてるわね」
ママが箱から取り出したのは、どう見ても小さな女の子用にしか見えないワンピース型のバトン衣装だった。
「ちょっと小さいけどまだ着れるわよね」
そう言ってママは僕の体にそれをあてがう。もう間違い無かった、二人は僕にこの衣装を着せてバトン部の予行演習をさせようとしているのだ。
「えっ!?・・・・・・い、いや・・・・・・」
まだ何が何だか分からないままの僕は慌てて手を翳してみせた。だが二人がそんな事で思いとどまる筈も無かった。
「ほら、お姉ちゃんが出てくるまでに着替えないと面白くないじゃない」
「い、いや・・・待って・・・・・・」
スカートが気になって強く抵抗できない僕の手足を押さえつけ、二人は着せられたばかりのはずの洋服をはぎ取っていく。あっという間にブラとショーツだけの姿にされ、ちょっぴり膨らんだままの股間が丸見えになっている筈だけど二人はなんにも言わなかった。それどころか、僕の目の前に沢山のふりるのついた真っ白いパンツが差しだされたんだ。
「はい、バトンするならアンスコは穿いておかないとね」
その時の僕は多分もの凄く情けない表情になっていたんだと思う。だっていくらなんでもそんなにフリフリした下着なんて身につけられない。
「なんて顔してるのよ、パンツ見られるよりいいでしょ?ほら、穿かせてあげるから足上げて」
そこで僕は大間違いに気がついた。アンスコって下着の上に穿くもんなんだ。少しほっとした僕の気持ちを悟ったかのように鈴葉ちゃんがニヤリと笑った。
「で・・・・・・でもっ・・・・・・これ・・・・・・」
だけど大間違いだった。直接肌に穿こうが、パンツの上に穿こうが恥ずかしいものは恥ずかしい。おまけにすっぽりと頭から被せられた真っ赤な衣装は少し小さい為か、はたまた子供用の為かスカートの長さが極端に短く、裾からはアンスコのフリルが可愛らしくチラチラと見えていたんだ。
「いいのよ。それをお客さんに見せるのもバトンガールの役目の一つなんだから」
鈴葉ちゃんの言葉は確かにそうかもしれないが、あくまでそれは小学生レベルのバトンガールの話だった。本当は、もう本当かさえも分からなくなってきたけど、二十歳前になる男の子の僕にとってそれは恥ずかしすぎる衣装だった。
「じゃあこれ持ってね」
ママが差しだしたバトンを僕は受け取る。銀色の棒の両端に白いゴム製のおもりがついたオーソドックスなバトンだ。手に取るのは初めてだったけどなんだかとっても恥ずかしい気分になってしまった。
鈴葉ちゃんに手を引かれて再び階下へ降りる。急いで階段を下りるとスカートがひらひらと揺れて本当に何も穿いていない気分だった。
「ちょ、もうちょっとゆっくり下りてよ」
慌ててスカートを抑えるそんな僕の姿を見て笑っていたのは、ショートカットの髪を濡らし、首にバスタオルを巻き付けた瑠花だった。
「へぇっ、似合うじゃん」
なにやら意味ありげに口の端を上げて瑠花は微笑む。実の妹の前で小学生みたいなバトントワリングの衣装を着ているだなんてとても現実とは思えなかった。
「やってみせてよ」
「えっ?」
「まわせるんでしょ?」
何故か僕は素直にうんと頷いてしまった。僕は小さな女の子なんだもん。バトンくらい少しは練習したことがある筈なんだ。
「や、やるよ」
だけど見よう見まねで回転させた僕の手首からバトンはするりと抜け落ち、鈍い音を立てて廊下の上に落ちてしまった。
「なーんだ。出来ないじゃん」
瑠花の言葉に僕は赤面する。きっとバトンも出来ない=男の子なんじゃない、っていうおかしな思考回路が僕の中に渦巻いていたんだと思う。
「教えてあげるよ」
そんな僕に鈴葉ちゃんはなおも優しく声をかける。
「こう持ってこうするんだよ」
鈴葉ちゃんの小さな手に操られバトンは綺麗にくるくると回転する。やっぱり凄い。鈴葉ちゃんは、鈴葉お姉ちゃんは本当に女の子なんだ。僕はその時初めて強い劣等感を感じた。そしたら・・・・・・そしたら・・・・・・
「あれ、泣いちゃったの?」
そう。恥ずかしい事に僕の頬を伝った涙が知らない間にフローリングの床を濡らしてしまったいたんだ。
「こんな事で泣かないの。お姉ちゃんにいいところ見せられなかったのがそんなに嫌だったの」
鈴葉ちゃんが僕を正面から抱きしめた。僕は思わず遙かに年下の小学生の胸に顔を埋める。いろんな感情が頭の中に飛び交い、もう自分が何故泣いているのかも分からなかった。
「やれやれ、鈴羽はまだまだガキだな」
瑠花の声が背中から響く。
「そんなの練習すりゃあいいんじゃん。誰だって初めから出来ないよ」
それは彼女なりの優しさの表し方だったのかも知れない。
「うん、一緒に練習しようよ」
鈴羽ちゃんも僕の涙を指で拭いながらそう言ってくれた。僕はこのとき、なんとなくこの家の家族の一員なれた気がしたんだ。

それから僕の特訓が始まった。場所は広いリビング。鈴葉ちゃんが以前使っていたという子供向けの練習DVDを見ながら、鈴羽ちゃんには重すぎるからって幼児向けの小さなピンクのバトンを持たされて・・・・・・
「あはは鈴羽って本当に不器用だな」
何度も何度もバトンを落としてしまう僕を見て瑠花が笑う。だけどもうさっきと違って恥ずかしさや寂しさは感じない。
「わたし、できるもん」
ふくれっ面をしてそんな風に言い返す余裕も出来てきた。バトンを手に持ってくるりとその場で回る。スカートが翻り、僕のアンダースコートを穿いたお尻を瑠花に見られる。
恥ずかしい。だけど恥ずかしくなんかないもん。だって僕は小さな女の子なんだから。
恥ずかしいと思うことは僕が男の子だという肯定に繋がる。だから恥ずかしがっちゃいけないんだ。そんな矛盾をはらみながら僕は必死にテレビに映るお姉さん達のレッスンを受け続けた。

「鈴羽も結構根性できてきたよな。いつもみたいにすぐに諦めるかと思ったけど」
夕食の席、瑠花お姉ちゃんがママにお代わりを要求しながら僕を皮肉る。
「私だってもうすぐ高学年だもん。下級生のお手本にならなくっちゃ」
そう言いながらも、この時僕にはまだ少しの違和感が残っていた。
瑠花が僕の諦めの早い、悪く言えば根気が無くすぐに何でも投げ出してしまう性格を知っている事、なによりもう七時になろうとするのに僕は、僕たちは鈴羽ちゃんのお家で自然に食卓を囲っている事に。
「そうよね、じゃあニンジンだって食べれるよね」
ママがそう言って僕のお皿にニンジンのグラッセを置く。
「ええっ!こんなに大きいの食べられないよ」
僕はそう言いながら少しホッとする。僕の嫌いな食べ物を知っているママ。そのママは鈴葉ちゃんのママなんかじゃなくって、僕と瑠花のママなんだと。
「ダメよ。ニンジンくらい食べられないと下級生に笑われちゃうぞ」
僕はお皿の上のニンジンをじっと見つめる。ママやお姉ちゃん達のお皿より遙かに小さな僕のお皿。アニメのキャラクターがプリントされた小さな女の子向けの僕専用のお皿。
ここは僕の家なんだ。そう思って僕はニンジンにフォークを突き刺した。
「あっ、おいしい」
一口囓ったニンジンはちっとも苦くなんかなく、甘い香りが口の中に広まる。どうして僕は今までこんな美味しいものを食べられなかったんだろう。
「へぇっ、鈴葉大人じゃん」
お姉ちゃんが褒めてくれる。僕は大皿に手を伸ばし、更にピーマンにもフォークを突き刺す。
「そうだよ、鈴葉もう大人だもん。ピーマンだって食べられるよ」
そう言って大嫌いなピーマンを口に持って行く。
「うえっ」
だけどダメだった。甘く煮詰めたニンジンと違ってやっぱりピーマンは生臭くて苦かった。一口囓っただけで僕はフォークをお皿に投げ出してしまった。
「やっぱり鈴羽ちゃんはまだお子様ね」
隣の席の鈴葉ちゃんが僕の残したピーマンをお箸でつまむ。汚いよと僕が言う暇もなく彼女は僕の食べ残しを平らげてしまった。
「うん、美味しい。この大人の味が分かるには鈴羽はまだ早いみたいね」
ママとお姉ちゃん達が笑う。そう、僕は三人姉妹の末っ娘。
楽しい食事の時間はそうやってすぐに過ぎてしまった。

夕食後、みんなでテレビを見て、お姉ちゃん達とお風呂に入った。
「鈴羽、胸ねぇな」
瑠花お姉ちゃんが僕の胸をさする。中学生のお姉ちゃんの胸はとっても大きい。私もいずれはあんなブラが必要になるのかな。
「鈴羽もすぐにいるようになるわよ」
私がブラジャーを真剣に見ているのに気がついたのか、鈴葉ちゃんが励ましてくれる。私の付けているファーストブラなんかじゃなく、立派にカップのついたお姉ちゃん達のブラ。鈴葉お姉ちゃんの胸はもちろん大きいお姉ちゃんほどじゃ無かったけど、とっても綺麗だった。
「ほら、頭洗ってやるよ」
私の髪にシャワーを掛け、瑠花お姉ちゃんが優しく流してくれる。俯くと私の股間にはお姉ちゃん達と違っておかしなものがくっついているけど、大人になればこれも取れるんだろうな。
湯上がり、綺麗なパンツに履き替えてパジャマに着替える。お姉ちゃん達のと違ってとってもカラフルな私のパジャマ。胸の部分に大きな女の子向けアニメのプリントされた女児向けのパジャマ。なんだか子供ぽくって恥ずかしいって言ったら、鈴葉が自分でおねだりしたんじゃない変な子ね、と言われてしまった。
そうだったっけ。わたしこんなパジャマを着たいって言ったのかな。でも鏡に写る可愛いパジャマを着た自分の姿を見てたらとっても楽しい気分になってきちゃった。

広い洗面所で三人並んで髪を乾かす。
ママに早く寝なさいって言われて少し違和感があったけど、ここは私の家だよね。だってここは私の部屋なんだもん。ほら、ドアに付けられたプレートに「鈴羽のおへや」って書いてあるもん。
「どうしたの、おかしな子ね」
だけど自分の部屋の前で立ち尽くす私を見て、ママとお姉ちゃん達が不思議そうな顔をする。
「ううん、なんでもないの」
私はそう言いながらもいい知れない不思議な感覚に囚われていたんだ。
いやそんな事無い。ここは昔から私の部屋なんだもん。私はずっとここに住んでいるんだから。
だけど自分にそう言い聞かせながらも、どこかで別の声が聞こえる。
思い出せ。お前はここの子じゃないだろ。お前は男の子なんだ。この扉を開けると後悔するぞ。
でも私は首を振ってその悪魔の声を振り切る。だって私は女の子なんだもん。ここはやっと見つけた僕の、いや私の、私が存在してもいい場所なんだもん。
私はノブを強く握りゆっくりと回す。ママ達が背中で温かい目で私を見つめているのが手に取るように分かった。私は幸せを噛みしめながら扉を開けた。

「わあっ」
思わず口からそんな言葉が零れた。
部屋はイメージ通りの女の子の部屋。優しいくらいのピンク色に彩られ、学習机に可愛いベッド、少女漫画と絵本の並んだ本棚と机に掛けられた赤いランドセル。
私は吸い込まれるように部屋に足を踏み入れる。途端全身をおかしな感覚が支配した。
「あっ・・・・・・」
気がつけばちょっぴり胸が膨らんでいる。いや、当たり前だよね私ももう小学四年生なんだもん。
「明日の時間割できてるの?」
鈴羽お姉ちゃんに言われ、机に貼られた時間割を確認する。明日の授業は算数と理科。それから体育もある。
机の横からランドセルと取り、教科書とノートを詰めていく。ノートの表紙には「西沢鈴羽」と私の名前が書かれている。
ママ達に見守られながらタンスを開けて体操着を取り出す。そう、それがどこに入っているかも私は知ってるもん。だってここは私の部屋なんだから。
「そうそう、明日から給食当番でしょ」
ママがそう言って私に小さな袋を渡してくれる。きっと入っているのは真っ白な割烹着と帽子にマスク。ママありがとうと言って私はそれをランドセルの金具に引っかけた。
明日からこの赤いランドセルを背負って学校に通うんだ。
そう思うとおかしな事になんだか頬が熱くなった。私ってどうしちゃったのかな、そんなこと毎日している事なのに。
「じゃあおやすみね。ゲームとかして夜更かししちゃダメよ」
「そうそう子供は早く寝るんだぞ」
「また怖い夢見たら、お姉ちゃんの部屋に来ていいからね。一緒に寝てあげるわよ」
ママとお姉ちゃん達が口々に私に言う。私は心から嬉しく暖かい気持ちになり、段々と全てが満たされるように感じた。
「うん、わかったよ。ママおやすみ」
私はにっこりとママに微笑む。
「鈴羽お姉ちゃん、おやすみ」
お姉ちゃんが私の頭を撫でる。いつかお姉ちゃんみたいな美人になりたいな。
「鈴羽」
そう呼ばれ私は背の高い瑠花お姉ちゃんを見上げた。
「その・・・・・・よかったのか、本当に・・・・・・」
そう言いかけてお姉ちゃんは苦笑いする。
「いや、なんでもないや。おやすみな、オネショすんなよ」
「ばか。もう私四年生なんだよ」
私はもう一度おやすみを言って静かに扉を閉めた。
さっき瑠花お姉ちゃんが微かに「お兄ちゃん」って言った気がしたけど、あれは一体どういう意味だったんだろう。

部屋の電気を消してベッドに横になる。机の上のピンク色の携帯ゲーム機を手に取ろうとしたけど、鈴葉お姉ちゃんに叱られるから今日はやめておこう。
明日はどんなお洋服で学校に行こうかな。勉強は好きじゃないけどお友だちと遊べるから学校は大好き。大丈夫、きっと私はうまくやっていけるもん。
怖いからスタンドの電気はつけたままにして目を瞑る。
とってもいい履き心地のパンツを穿いて、ちょっと恥ずかしいファーストブラ。それからお気に入りのトレーナーに明日はいい天気みたいだから真っ赤なスカートがいいかな。
四年三組って書かれたピンク色の名札を付けて黄色い帽子を被る。赤いランドセルを背負って、元気に給食袋を揺らして学校へ急ぐ自分の姿が頭の中に浮かんだ。
そういえばこんな風な事を考えると、以前はちょっとおかしな気分になっちゃったんだ。
夢うつつで僕はそんな事を考えていた。
寝返りを打ち、僕の手はそっとその場所に伸びていく。
うん大丈夫。なんともなってない。
僕は安心して夢の世界に引きずり込まれていった。
やっぱり僕は女の子でいいんだ。
だってそこにはもう何も無かったんだから。





長期間に渡るご愛読ありがとうございました。